2009年07月19日

四川水害緊急レポート

日本では余り報じられていませんが、四川地震の被災地で豪雨による水害が発生しています。四川に戻ったYさんから緊急レポートが来ましたので、お届けします。

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四川水害緊急レポート(2009・7・18)

 昨年5月12日に襲った四川大地震の被災地にまた水害が発生した。7月14日から激しい雨が四川省全体で降り続いた。その激しい雨は、土砂崩れ、土石流、家屋浸水などの被害を引き起こした。17日までに死者8名、行方不明5人、仮設住宅浸水400戸、緊急避難者約11万人、約188万人がこの水害で被災したという。被害の大きいエリアは、青川、北川、江油、平武、三台などの22の市県に及ぶ。いずれも昨年の四川大地震の被災地である。北川から平武を通って青川へと抜ける山あいの地域である。昨年の地震で地盤の緩んだ斜面が崩壊し、土石流を引き起こしたとも思われる。地震後、ブン川や北川などの激甚地区でも大規模な土砂崩れを起こした斜面に土砂止めなどの対策を施しているところは決して多くはな
い。

 TVの映像では浸水した仮設住宅で洗面器で水をかき出す様子が流れている。北川県の曲山鎮の仮設住宅では一時60pの浸水があったという報道もある。実は昨年の地震後、廃墟になった北川県城では6月の塞き止めダムの崩壊と9月の集中豪雨による土石流災害の2度の水害に見舞われ、水の引いた廃墟の街は大量の土砂や流木で埋まっている。仮設住宅がそのまま流されたところもある。古代の水利の英雄、「大禹」は故郷、北川の変わり果てた姿を見たらどう思うのだろう。

 一方、CODEが地震直後から支援してる光明村を含む香泉郷でも水害で電気と道路が寸断された。郷政府の人々もその対応に追われていた。数ヶ月前からの郷を横断する道路建設の為に掘り起こしていた事で被害が拡大されたのかもしれない。村のお医者さんに電話すると「大丈夫だ。今のところは人や家屋の被害はない。危ないから来ない方がいい。心配してくれてありがとう。」と言っていた。地震後から僕らとずっと被災地に通っているドライバーは「地震後の去年はあまり降らなかったのに、今年はこんなに降るなんて、天が泣いているのかもね。」と言っていた。「国破れて山河なし」にしてしまった子孫に対する「大禹」悲しみの涙なのかもと僕は思った。
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2009年06月24日

中国四川省地震救援ニュース 94

被災地である北川県香泉郷には約7900人の人々が暮らしている。郷内12の村のうち、6つは無医村であり、一人の医者が約1000人〜1500人の人々の健康を支えている。医者のいない村は、隣の村や郷の大きな病院へと自力で行かざるを得ない。
この地震によって郷内の7か所の診療所のうち2か所は全壊、その他も半壊、一部損壊などの被害を受けた。地震から1年が経とうとしている今も仮設テントで診療している医師もいる。

先日、郷のある村でP医師とお話をしている時に急病人が出たという知らせが入った。医師が呼ばれて僕もその後をついて行った。意識もなく過呼吸状態であるその男性高齢者を診たP医師は、自分の手には負えない危険な状態と判断し、この日たまたま居合わせた日本の元看護師Kさんも脳梗塞の疑いがあるとして「このままにしておくと最悪、死に至る。助かっても半身不随の状態にもなりかねない。」と言って至急、郷の大きな病院に搬送するようにすすめた。
だが、家族は出稼ぎ先の長兄と電話で相談した結果、病院には連れて行かず、このままの状態にしておくと言う。僕は耳を疑った。家族を見捨てるなんて。。。その家族が言うには、まず、救急車を呼ぶにもお金がかかる。そしてその後、助かったとしてもリハビリや入院などの医療費にお金がかかるという理由からこのように決断したそうだ。僕たちやP医師が無理やり病院に連れていったところで結局は家族の負担になると思うと無理じいする事は出来なかった。P医師も複雑な表情をしていた。日本的には、「とりあえず入院させて、お金は後で何とかなる」と考えるかもしれないが、これが、四川の農村の「何ともならない現実」であった。震災はこのようなところにも影を落としている。
家族の一人のおばあちゃんが、「住宅再建ですでに数万元の借金をしているのよ。どこにお金があるのよ!」と訴えるように言った言葉が今も耳に残っている。後日、P医師からその男性が亡くなった事を聞いた。

診療所を併設する「総合活動センター」が出来ると公共の施設となって医療費が安くなるという。センターが農村の医療問題の解決の一つのきっかけになればと思う。
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2009年06月16日

中国四川省地震救援ニュース 93

引き続き、Yさんレポートをお届けします。

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 綿竹市の中でも被害の大きかった遵道鎮棚花村。この春、ここには観光客の姿があった。非常に美しい田園風景の広がる広済から遵道、九龍、土門などでは毎年3月には「梨の花祭り」が開かれる。その中でも棚花村では震災前からこの花祭りを目当てに多くの観光客が訪れ、伝統工芸である年画や蜀繍(蜀の国の刺繍)が人気であった。

 震災後初めての春、この周辺では梨の白やピンクの梨の花と壱面の黄色い菜の花が咲き乱れた。その花に誘われるかのように観光客も徐々に集まり始めた。棚花村では再建された家屋の壁には年画が描かれてあり非常に雰囲気がある。そして村の中では以前のように「農家楽」を営む人々も現れ始め、訪れた観光客のおもてなしに大賑わいであった。

 昨年の地震直後、ボランティアで知り合ったSさん(22歳)はこの村の刺繍の先生でもある。Sさんとは、昨年6月初めてこの村を訪れた時からの縁で、ボランティアの会議でも僕の中国語のサポートをしてくれたり、一緒に北川県光明村にボランティアに行ったり、全壊した彼女の家のガレキを片づけたりと被災者であるにもかかわらず共に汗を流してきた。いつも「お兄ちゃん」と呼んでくれる可愛い妹でもある。彼女は、観光客に刺繍を買ってもらうために再建した自宅の一角に刺繍工房兼展示室を作り、自分で作った作品を観光客に売って生計を立てている。この日、お母さんは隣の農家楽のお手伝いに駆り出されて食事の準備に大忙しだった。訪れた観光客は、中庭で食事をしたり、マージャン、トランプに興じていた。お茶をすすりながらきっと震災の話でもしているのだろう。。。
この日お母さんが忙しそうに働いている姿が生き生きしていてどこか嬉しそうだった。
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2009年06月13日

中国四川省地震救援ニュース 92

Yさんレポートです。

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震災から1年が過ぎた四川の被災地では、「観光」復興への道へと進もうとしている。

被害の最も甚大であった北川県城は、元の場所に町を再建するのでなく、数十キロ離れた安県の平場に新たな「新北川県城」を再建する。そして元の「老北川県城」は地震遺跡として一部を保存する。北川県は、再建する「新北川県城」を「北川観光サービス基地」を中心に震災関連の「老北川県城」や「唐家山堰止め湖」などを「地震遺跡総合観光エリア」とし、震災前から観光地でもあったチャン族の治水の英雄の「大禹博物館」などの「禹里生態文化観光エリア」、自然豊かな「猿王洞」などの「猿王洞風景観光エリア」、避暑地でもあったチャン族色の濃い「青片小寨子風景観光エリア」などを新たに整備しようとしている。

 1年を迎えるころから被災地を訪れる観光客が増えだした。成都のある場所では毎朝、被災地を巡るツアーバスが出ている。旅行代理店が企画をし、百数十元でガイドが付いて北川県などの被災地を回ってくれるという。このお金が直接被災地の被災者の人々に落ちているかは、甚だ疑問であるが。。。

一方、北川県城周辺で被災した人々は未だ、仮設住宅でも不自由な暮らしの中、壊滅した「北川県城」見に訪れる観光客相手に震災のDVDや写真集、チャン族の刺繍などのお土産などを売って細々と暮らしている。僕も日本から来る専門家の方々やボランティアの人々を連れて何度も行っていると自然に顔なじみになってくる。被災者であるF さんは、自宅が倒壊し、今も仮設で暮らしながら廃墟になった県城を見下ろせる場所で見物客相手にお土産を売っている。Fさんは、いつも僕に「今日も日本の友人を連れてきてくれたのか!」と言って握手で迎えてくれる。いつも気になっていた事を聞いてみた。「ここには沢山の人が見物に来るけど嫌じゃないの?」と問うと、Fさんは「中には死者を冒涜するかのようにゴミを捨てていく人もいるけどそれは少数で、ここにきて震災の事を理解してくれるだけでいいんだ。」と語ってくれた。「俺はここで商売しているけど押し売りした事はない。写真など自由に見てくれて、買いたければ買ってくれたらそれでいいんだ。」と次から来る見物客に写真を丁寧に説明しているFさん。KOBEの「まけないぞう」を渡すとがっしりと手を握って「ありがとう」と言い、お礼に売り物である震災の絵葉書をくれた。

被災地が観光地になる事に対して日本の人々は疑問を持つ人も少なくないのかもしれないが、Fさんのような人々に出会って、生の話を聞き、そこに少しでも直接お金を落としていくような観光のあり方もあるのではないかと思った。
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2009年05月14日

中国四川省地震救援ニュース 91

Yさんレポートで、地震1年の被災地の模様をお届けします。

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2009年5月12日 14:28 ここ四川の被災地の多くの場所で沢山の人々が黙祷と追悼の念を捧げた。震源近く映秀鎮の?口中学校では、倒壊した校舎の前で胡錦濤主席ら国家級の人々が追悼の儀式を行った。綿竹の漢汪鎮や青川県などの被害の大きかった被災地はもちろん追悼の式典が行われたが、成都市内の天府広場にも多くの人々が自然発生的に集まって追悼したという。

約1万人2000人以上の方が亡くなった北川県城でもこれまで封鎖されていたゲートが開かれた。僕も前日の11日に北川県城に入る事が出来た。昨年の5月17日以来、約1年ぶりであった。5月の地震で廃墟と化した町に6月の塞き止め湖の氾濫と9月の土石流で埋まった家屋、車などがまったくそのままの状態で無残な姿であった。町の数か所に追悼の断幕や参拝の場が設けられ、この日は沢山の遺族がここを訪れ、線香、ろうそくが灯され、花が捧げられてあった。1階が潰されたビルの前にはひっそりと線香の煙が立っていた。被災地で約1万7000人の方が未だ行方不明と言われている。家族の亡骸を見ることも出来ずに、未だ死を受け入れられないのも当然だとその線香を見て思った。

 町の中ほどを歩いていると大きな泣き声が聞こえてきた。水で流されたであろう木材やガレキの山の前に女性が泣き崩れていた。抑えきれない悲しみから石をガレキの山に向かって何度も何度も投げつけていた。どうやらご主人や子供さんを亡くされたらしい。ある日突然、家族を失った悲しみは1年経ったところで到底癒されるものではない。

CODEの支援する光明村の多くの人々も12日はそれぞれの思いを胸に北川県城へと向かった。この日の村は誰も居ず、とても静かであった。あの日から1年、北川県城を追悼に訪れた人は約27万人だという。
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2009年05月13日

中国四川省地震救援ニュース 90

Yさんレポートで、「総合活動センター」を再建する香泉郷の様子をお伝えします。

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「総合活動センター」を再建する香泉郷は、北川県の南東に位置し、2200世帯、約7900人の住む農村地域である。そのうち約7500人(96%)が農民戸籍である。農村と言っても、郷内の森林被覆率は、80%で、標高が540m〜780mと地形は決して平たんなものではない。日本の中山間地域のようなところである。山には杉、松、竹や茶木が多く、その下には斜面を利用して季節によってトウモロコシ畑や菜の花畑などが広がり、野菜や果樹が隙間を縫うように植えられている。最も低い部分では田んぼで米や小麦を作り、その水田にはアヒルが放し飼いにされている。そして自宅の裏には豚や鶏を飼っている。自分たちに必要なものを作り、食べる。余った分は売るか、親戚にあげる。時折くる移動販売で調味料などのわずかなものを買う。いわゆる自給自足の生活である。非常に豊かな暮らしである。
だが、当然、農村にも電気やテレビ、モーターバイクもあり、とりわけ子供の教育費に現金が必要になる。村には現金を得る仕事がないので多くの若者は遠く外省へと出稼ぎに出る。村に残っているのは、小学生と高齢者がほとんどである。

 そんな農村に地震が起きた。地震の時、外に農作業に行っていた為、亡くなった人は少なかったが、郷の約1900戸(86%)の家屋が被害を受けた。住宅再建を余儀なくされた被災者の人々のほとんどが、多額なローンを組み、3年以内に返済しなくてはならない。これから返済に向けて頑張ろうとしているところに世界的な金融危機が起きた。「早く再建して早く出稼ぎに行って早く借金を返済しないと」と思っている矢先の出来事だった。この杞憂危機の影響で中国国内で約2000万人の失業者が出たと言われる。これまでのように簡単には仕事は見つからない。出稼ぎ人口の最も多い四川省の被災農村にも金融危機の暗い影を落としている。

 そんな中でも少しずつ再建されていく自宅を前に被災者の人々はどこか嬉しそうにも見える。本来ならば、豊かであったはずの暮らしが、どこか不便で貧しいものと感じさせてしまう風潮。世界がこんな状況だからこそ四川の農村の被災者が、自らの暮らしにもっと自信を持ってもいいのではないかと思う。この「総合活動センター」はそのような暮らしを今一度、見つめなおす場になる事を願っている。

 あれからもう1年。これまで寒々としていた被災農村に新たな春がやってきた。一面に咲き乱れる菜の花の黄色が、復興への希望を象徴しているように思えた。
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2009年05月06日

中国四川省地震救援ニュース 89

Yさんレポートによる復興支援プロジェクトの内容です。

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 前回、CODEのプロジェクトが決定したとお伝えした。地震直後から活動している光明村を含む北川県香泉郷の7つの村に「総合活動センター」を再建する。この総合活動センターには様々な機能が集約される。村の決定機関である「村民委員会」、村の医療機関である「衛生室(診療所)」、芸能、教育などを司る「文化活動室」、村内の放送機関の「広播室」、会議室などである。その中でも最も重要であるのが、衛生室すなわち、診療所である。

 光明村では、約700人の村民の健康をたった一人の医師が支えている。香泉郷12の村には医師さえいない村が4つもある。そのような村では病人が出ると隣の村もしくは、比較的大きな郷の「衛生院」まで自力で行くしかない。また、急病や重症の場合は郷の衛生院から救急車を自費で呼ぶ。仕事のない農村の住民にとって医療費は決して安いものではない。ましてや震災で経済的にも大きな負担を強いられた被災者にとっては尚更である。

 中国の農村の医療制度はまだまだ不十分であり、昨年4月から中央政府は「新農村建設」政策の一貫として農村部を対象に「新型農村合作医療制度」という健康保険制度を導入し、約9億人と言われる全農民の約8割以上が既に加入したと言われる。昨年5月の地震後もこの制度が活用されていると言われるが、施行されたばかりで制度上の不備や普及上の問題なども少なくないようだ。

 郷政府のW書記の話によると、これまで村の診療所は個人のものであった。それ故に医療費は安くなかったという。この「総合活動センター」を再建する事で診療所は公共性を帯び、医療費が安価なものになるという。この「総合活動センター」の機能には様々な効果が期待されるが、被災農民が切望しているのはまさに安価な医療であろう。。
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2009年04月21日

中国四川省地震救援ニュース 88

四川地震から1年が経とうとしていますが、CODEの復興支援プロジェクトが漸く決まりました。Yさんレポートで報告します。

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昨年5月12日に発生した四川大地震(中国では、5・12ブン川大地震と呼ばれる)から間もなく1年の月日が過ぎようとしている。

CODEは地震発生の3日後から救援活動を開始した。日本人を中心に中国、韓国、香港などの沢山のボランティアとガレキの片づけから始まり、仮設住宅建設、農作業、住宅再建などを被災者の方々と共に汗を流し、被災者の声にじっと耳を傾け、時には地震や耐震の事を一緒学びあい、考え、悩みながらこの1年活動してきた。その中で少しずつ被災した村人との信頼を築いてきた。

そして1年を目前にCODEのプロジェクトが理事会の承認を得て正式決定した。
地震直後から活動してきた光明村のある北川県香泉郷全体の診療所を含む「総合活動センター」を7つの村にひとつずつ再建する。(中国政府は06年より国家プロジェクト「新農村建設」の一環として医療改革を推進し、この震災復興の中にも反映させている)この地震で診療所が倒壊し、未だ不自由な仮設テントで診療する村医や高額な医療費故に診察を拒む被災者の人々にとっても意義のある事と思われる。また、この「総合活動センター」には、診療所はもちろん、村民委員会、村内放送室、文化活動室などの機能を併設し、ここで被災者自らが、自分たちの村、地域を考えていく場にもなり得る。このセンターが村の中心的なコミュニティースペースとなる事を切に願う。14年前に同じ痛みを味わったKOBE、そして日本の被災地の方々などの貴重な浄財を四川の被災した農村に還元したいと思う。もちろん、建物を建てて終わりではなく、その後もCODEらしく被災者と共に悩み、共に学び合っていく活動を継続していきたい。今後とも皆様のご協力、ご指導、ご理解をいただきたく思う。

 このプロジェクトの詳細(場所、機能、意義など)については、次号よりレポートする予定である。
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2009年03月03日

中国四川省地震救援ニュース 87

Yさんレポートをお届けします。

「桃坪」という場所が被災地にある。四川省省都、成都から約60km、アバ州理県にあるチャン族の集落である。以前は桃の栽培が盛んだったことからこの名がついたそうだが、地震が起こる前までは四川でも有名な観光地のひとつであった。精密に石を敷き詰めて建てられたチャン族伝統家屋が見事に残り、それを縦横無尽にとりまく通路が迷路のようになっている。これは古来より外敵から防御するために考え出されたものであるという。また、ひと際目に着くのは、ちょう楼という高さ20〜30mの塔で、昔は見張り台として使われていたそうで、現在は作物の貯蔵などに使われている。古いものは約1200年の歴史があり、チャン族が最も古い少数民族のひとつであることを思わせる。集落の多くの家は民宿として観光客を迎え入れ、チャン族の暮らしをそのまま味わうことできる。石積みの家の間を歩いているとどこか違う世界にタイムスリップをしたような感覚になってくる。

だが、この桃坪も地震によって大きな被害を受けた。石や土の壁が大きく崩れ落ち、いたるところに緑色の防護ネットが張られている姿が無残である。地震後、アバ州へと続く主要道路が崩落し、外部からのアクセスが不能となった。08年10月頃から道路の修復を終えたが、未だに観光客はまったくいない。道端で日向ぼっこをしながら刺繍をしているチャン族の女性たちに話を聞いた。

もともと地震前より民間の投資による観光開発の計画が進められていたという。ここに住んでいるチャン族の人々を別の場所に移転させ、この集落をそのまま博物館のようにするというものだったそうだ。新たに100ムー(1ムー約667u)の土地を開発し、そこに住民を移転させ、宿泊施設などを建設する計画で、すでに約7割の住宅が完成していたのだが、そのうち80%の家屋が地震によって危険家屋となったそうだ。民間企業による一人あたり1.5万元の補助の他は、自らの出費で家を建設していた矢先に地震が起きた。桃坪内の元の住居も被害を受け、新しい住宅も被害を受け、現在、ほとんどの住民は集落内でテントや掘立小屋を建て、暮らしている。
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今後の復興の話を伺うと、文化遺産として評価の高い元の集落は、国家文物局によって修復がなされるそうであるが、現在建設中の新居は政府の補助も何もないとう。たとえ元の家が修復されたとしても博物館として保存されるのであれば、以前のようにそこに暮らすことはできなくなる。一方、新居を補修、再建する為の資金も補助も全くない。そして最初に投資した民間企業も去ってしまったという。彼らは今後どこに住めばいいのか、いわば「宙ぶらりん」の状態である。人よりも文化遺産が優先される復興。もちろん文化の保護も重要であるが、そこに人々が暮らしているからこそ文化遺産としての価値もあるのではないかと思い
ながら話を聞いていた。。。
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2009年02月13日

中国四川省地震救援ニュース 86

 北川県光明村では四川大地震で4,5組のほとんどの家が被害を受けた。9月より住宅再建が進んでいるが、5組では、三十数年振りに伝統構法の木造住宅が再建されている。

 先日、一軒目の木造住宅の棟上げ「上梁」が行われた。村の大工によって加工された柱や梁をある程度組み合わせた段階で皆で立ち上げる。男性は梁に上がり、木槌で柱と梁を叩いて組み、女性は下でロープで柱を立ち上げる。子供は爆竹や願いの赤紙の準備し、高齢者たちは周りでそれを見守る。この日だけは、隣でレンガ住宅を再建している人々も手伝う。村長、組長、子供、女性、お年寄りたち、5組の住民総出で「ああでもない、こうでもない」という感じで家を組み上げていく。普段あまり家の事を手伝おうとしない息子さんも一生懸命働く。様々な願いの書かれた赤い紙を柱に貼った後、家の四隅に線香が立てられ、この家の持ち主であるLさん、Xさん夫婦と息子の3人を前に村の長老のような方から何やら文言を唱えられる。そして家の中心である赤い布の巻かれた梁が厄除けの爆竹の爆音と共にロープで引き上げられた後、日本のモチまきのようにキャンディーやクルミ、豆などがまかれて「上梁」が終わる。その後、参加した村人を招いて宴会が行われる。

 30年振りに行われた「上梁」。光明村に通い始めて7カ月、初めて「文化」というものを垣間見た気がする。このようにして光明村の人たちはいざという時に助け合いながらずっと生きてきたのだろう。木の家を建てるという事は、ただ単に住宅再建をするという事だけではない効果を村の人々にもたらしたに違いない。
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