2011年05月12日

中国四川省地震救援ニュース104


2008年5月12日に起きた中国・四川省の地震から、今日で3年を迎えました。
私どもCODEは、スタッフ吉椿雅道を現地に派遣し、直後のがれき拾いからはじまり、住民の方々に寄り添う活動を続けてきました。
現在、四川省にいる吉椿から、3年を迎えた被災地のレポートをお送りします。
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四川大地震3周年レポート1
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2008年5月12日14:28 四川大地震(中国では5.12?川大地震)が発生した。四川省の北東から南西に走る約300kmの龍門山断層が動いた事によって、その被害は断層沿いに300km以上に及び、死者6万9226人、負傷者37万4643人、行方不明1万7923人という惨状となった。

あれから3年。

広大な被災地の町は、急速なスピードで再建された。中国独自の「対口支援」(各被災地を沿岸部の経済発展をした省市がそれぞれ担当して支援する)というシステムを活用し、被災地各地に大規模かつ真新しい都市が再建された。

死者行方不明者約2万人という被害を出した北川県城(曲山鎮)は、町が断層上にあり、危険だという理由から元の場所での再建を断念し、町を約20km離れた平地に移転する事になった。わずか2年で新しい町(永昌鎮)が再建されたが、鎮内約7400戸のマンション群に入居しているのはまだ僅か。大学のようなキャンパスを持つ北川中学、人民医院、スタジアム、博物館、商業街などは完成し、すでに活用されているが、広大な町の中で生活するためのスーパーや銀行、郵便局などは未だ建設中で町としての機能が不十分である。

震災前にこの土地に住んでいた高齢者はいち早く入居したが、「広すぎて不便だわ。」という。バスなどの町内交通がまだ整備されていない町で買い物ひとつも数十分歩いて行かなくてはならない。これまで田畑を耕して暮らしてきた農村高齢者にとってこの真新しいマンションと街にはなかなか馴染めない。「子ども達は出稼ぎに行ってて、する事がなくてねえ。」とブラブラしている。そんな高齢者たちがいつの間にか川沿いの橋のたもとに集まって麻雀したり、井戸端会議をするようになっている。

新北川(永昌鎮)は、非常に速いスピードで綺麗な町が再建された。だが、そこにまだ暮らしの匂いが感じられない。復興計画では、今後、産業エリアも建設し、新住民を引き入れ、最終的に2020年までに7万人の町にする予定だ。そこに暮らす人々が胸を張ってここが自分達の故郷だと言える日はいつになるのだろう。

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四川大地震・支援プロジェクト経緯
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CODEは地震直後よりスタッフ吉椿雅道を派遣しました。吉椿は様々な被災地を調査した後、北川県香泉郷光明村において、がれきの片付けをはじめ住民の方々との寄り添い・協働を行ってきました。

既にニュースレターやHPなどでご報告しておりますが、当初建設を予定していた「総合活動センター」(医療施設等を含む)は、中国政府によって建設されることになったため、昨年、村の方々と協議の上この計画を変更し、「老年活動センター」の建設に取り組んでいます。

「老年活動センター」とは、中国の村では一般的な施設で、その名の通り高齢者が集い様々な活動を行うふれあいの場です。また、私たちもKOBEの経験から、高齢者を孤立させることなく元気づける場の大切さを学んできました。

これを、いま香泉郷には数少ない木造の耐震モデルとして建築することにより、地震の際「木造の家は壊れにくかった」という人々の体験を具体的にアピールすることができます。そのため、高齢者の娯楽室、運動用スペースのほかに建物の骨組みが一部見えるようになった「震災展示室」を作ります。また、子ども向けの図書室も備えるなど、高齢者に限らず住民が広く利用できる場となる予定です。特産品作りなど、村おこしにつながる活動の拠点にしたいという話も出ています。

皆様には長らくご心配をおかけしましたが、昨年11月20日、CODE代表理事が光明村を訪問して本プロジェクトに係る調印を行いました。いま、吉椿が最終調整に入っています。今後も、これまで築いてきた光明村の人たちとの絆を大切に、「人と人とがつながる」支援を行っていきます。温かく見守っていただけますよう宜しくお願い致します。

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2010年11月10日

中国四川省地震救援ニュース 103

久しぶりにYさんレポートをお届けします。

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「重陽」という言葉をご存じだろうか。
陰暦(旧暦)の9月9日を日本でも「重陽の節句」、「菊の節句」と呼ばれ、五節句のひとつでもある。陽が重なると書くが、中国では奇数が陽数、偶数が陰数と呼ばれ、1月1日(元旦)、3月3日(上巳)、5月5日(端午)、7月7日(七夕)など陽数の重なる節目の日に様々な行事を行ってきた。最大陽数である「9」が重なることから「重陽」(ちょうよう)と呼ぶようになった。かつてこの日は、「菊の節句」の名の通り、平安時代は「観菊の宴」も催され、菊の花を飾ったり、菊酒(花びらにビタミンC.Eを含む)を飲み、邪気を払い、長寿を祈ったと言われる。そこから現在、中国では旧暦の9月9日は「老年節」(敬老の日のようなもの)と呼ばれている。日本では旧暦はすっかり影を潜めているが、中国では現在でも祝日や誕生日など旧暦が日常生活に用いられている。

 CODEが震災直後から支援している北川県光明村で「重陽節」の祭りを兼ねた「中日友好聯歓会」を開催した。震災後から今回で3回目になるが、村の財政不足やそれぞれの経済的事情によって中止という話もあったが、老年活動クラブや村人有志の熱い希望とボランティアの協力で実現する事になった。
老年節という事で客席の最前列には村の高齢のじいちゃん、ばあちゃんの席が用意され、チャン族の伝統的な音楽、踊りに始まり、村人の歌や芝居、そして日本人、韓国人、中国人ボランティアの歌なども披露され、その後の宴まで大いに盛り上がった。最終演目の「朋友」(友達)という中国語の歌を全員で歌い終わった後、僕らがそでに下がろうとした時、「そのまま!」と呼び止められた。すると、村で一番の仲良しであるお母さん、Xさん(38歳 女性)から大きな額をプレゼントされた。そこには「中日友好一家親」(家族のような中日友好を!)と刺繍で書かれてあった。このXさんは、村の中でもひときわ経済的に大変な状況にあり、再建した自宅も資金不足ゆえに未だ2階部分は完成していない。そんな状況の中、この日の為に数カ月もかけてコツコツと刺繍を仕上げたと思うと涙が溢れた。最近よく、Xさんは、「何もしなくていい。ボランティアの皆が顔を見せに来てくれるだけでいい。」とつぶやく。やはり、目の前のひとりひとりと確実につながっていく事が本当の国際理解を創り出していくのだろう。

 奇しくも、この祭りの行われた10月16日の同時時刻、四川省の省都、成都で大規模な反日デモが行われた。被災地の小さな農村では暖かい祭りが行われ、一方では過激なデモが行われる。日本にいると一部の報道が、すべてであるように思ってしまう。
震災は、これまでの価値観を大きく転換する機会にもなると言われているはずなのに。。。
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2010年05月31日

中国四川省地震救援ニュース102

引き続き、現地スタッフYさんより、震災から2年が過ぎた四川の様子をお伝えします。

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壊滅的になった北川県城(老北川)は、約20km南東の平場に移転し、今年の9月には基本的な工事を終え、永昌鎮(新北川)という名で新しい北川県城としてスタートする。

一方、未だガレキの下に約5000名の人々の眠る廃墟、老北川は、「北川地震記念館」の名で震災の傷跡を地震遺跡としてそのまま残す計画である。

2周年記念日を終えた5月15日、これまで封鎖されていた老北川県城は、正式に申請をすれば一日1000人を限度に見学できるようになった。擂鼓鎮には接待センターも完成し、遺跡記念館建設の全体図も展示され始めた。

計画では、エリアを3つに分け、@県城遺跡エリアでは、222棟の倒壊した建物は保存レベル別に分け、そのままの形で残される。A記念館エリアでは、手前の北川中学のあった一帯に「地震記念館」を建設する。そしてB二次災害展示エリアでは、地震後の塞き止めダム湖と土石流発生エリアである。この地震遺跡は約500haの面積になり、周辺の山間部の調整エリアも含めると全体で約3500haの規模になる。四川の被災地ではこのような大規模な記念館はここ北川のみで、地震遺跡としては他に映秀(?川)の震源記念地、漢旺(綿竹)の工業遺跡記念地、虹口(都江堰)の地震遺跡記念地の3つが計画され、すでに着工している所もある。

多くの被災者は地元での仕事は少なく、多額のローンを返済していかなくてはならない。様々な復興事業とその後の新しい街、施設で働ける被災者は決して多くはない。被災者の息遣いの聞こえるような暮らしの復興が求められる。
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2010年05月25日

中国四川省地震救援ニュース101

引き続き、現地スタッフYさんより、震災から2年が過ぎた四川の様子をお伝えします。

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廃墟と化した北川県城を見下ろす「望郷台」でお土産を売り、写真を撮って生計を立てるPさんは、いつも笑顔と握手で迎えてくれる。最近、体調を崩していたようで久しぶりに会って、二人でゆっくりと話す事ができた。

Pさんは、「この場所ももうすぐ終わりだな。」と肩を落とす。現在、北川県城では地震遺跡に向けて工事が進められているが、2周年を過ぎ、一般の見物客にも開放され始めた。これまで多くの見物客はこの望郷台で北川県城を眺め、追悼して、お土産を買って帰っていたが、県城が開放されると今後、望郷台に行く人はいなくなるのは必至である。

「中ではお土産売りはできないだろうな。せめて写真撮影の仕事でも出来ればいいけど。」と将来の不安を隠せない。「もし、だめだったら土方仕事でも何でもするつもりだが、もうこの歳じゃ、どこも雇ってくれないしなあ。田畑を耕せば食べるぐらいは出来るけどだろうけど。」と語るPさんだった。

Pさんは住宅再建で、4万元の借金をした。だが、期限の過ぎた今も返済できないでいる。「返済できる人なんてわずかだよ。」という。政府は住宅の97%が住宅再建を終えたというが、「そんな訳ないよ。見てみろ、あの集合住宅だって1年近く工事しているが、未だ完成してないだろう。」と向かいの山の斜面には再建中の住宅群を指さした。「1年前に始まったトンネル工事だってたった100mしか掘れていないんだ。」と賃金が払われずに労働者がいなくなった事を教えてくれた。対口支援で派手に進む復興事業とは違う現実がここにあった。
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2010年05月24日

中国四川省地震救援ニュース 100

現地スタッフYさんより、震災から2年が過ぎた四川の様子をお伝えします。

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中国では四川大地震を「5.12ブン川大地震」と呼ばれているが、「北川大地震」と呼ぶべきだという被災者も多い。最も多くの被害を出した北川県城は、人口3万人のうち、約2万人が帰らぬ人となり、未だ約5000人がガレキの下に眠ったままである。08年6月の塞き止めダム崩壊による水害、08年9月の土石流も発生し、ずっと封鎖されたままで、一部関係者のみ立ち入り禁止である。今年も5月12日には一般に開放されたが、昨年の30万人ほどの人出はなく、約8万人ほどだったという。

通常、中に入れない被災者の人々はいつの間にか高台から見下ろせる場所「望郷台」から故郷を想うようになった。「望郷台」では、今も被災者の人々によって地震の写真、DVD、チャン族の工芸品などのお土産が売られている。そして、ここは被災者によって「沈痛悼念5.12遇難同胞」と書かれた追悼碑が建てられ、いつの間にか「祈りの場」となっている。追悼碑のそばには線香とロウソク、紙銭が置かれており、志しを払ってお参りする。僕も何度となくここに立ってささやかな祈りを捧げさせてもらった。

だが、2周年を前にここにあったすべての追悼碑やお土産の屋台は地元政府によって取り壊された事を知る者は少ない。顔見知りのお母さんは、「こんな事をするなんて。。。」と目を真っ赤にしていた。たまたま参拝に来ていた大学生にこれを見て、どう思うか訊ねてみると「心が痛む。。」と言って、じっと壊された碑を見つめていた。
2周年を過ぎた今、人々は再び、お土産屋台を再開し、碑のなくなった場所には祈りの線香が絶える事はない。復興のスピードがますます加速する中、被災者の人々はこんな現実を生きている。
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2010年05月21日

中国四川省地震救援ニュース 99

震災後2年を経た光明村から、引き続きYさんのレポートをお伝えします。

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あの大地震から2年を経た今、被災者の思いもそれぞれだ。
直後から支援している光明村のDさん(60代女性)は2周年のこの日、村でひとり静かに食事をしていた。僕らが訪ねて行くと、嬉しそうに食事を出したり、果物でもてなしてくれた。僕が、「あれから2年だね。何人かの村人は、北川県城に行ったみたいだね。」と言うとDさんは、「色々と思いだすから私は行かないわ。。。」といい、当時の様子を少し語ってくれた。

5月12日、光明村の芸能部である「老年活動センター」の一員であるDさん達5名は、自らの芝居や踊りを披露する為に北川県城へと向かった。衣装にも着替え、さあ、これから自分達の出番という所で大地が激しく揺れた。何が何だか分からずに、命からがら建物から飛び出したDさんは、背中から右腕にかけて怪我を負った。混沌とする中、乗せてくれる車もなく、5時間かけて山を越えて光明村へと帰った。村にたどり着くと見渡す限りの家がガレキと化し、失意のどん底にあったそうだ。

直後に光明村でボランティアが、ガレキの片づけを行っていると「あそこのお母さんは一人暮らしだから手伝ってあげて!」という声がかかり、Dさん宅の倒壊した厨房や豚小屋の片づけが始まった。連日、暑い中黙々と汗を流し、自ら持参したカップラーメンを食べるボランティアの姿を見たDさんは、「そんなもの食べていたら体壊すよ!私がご飯作るから食べなさい!」と言う。申し訳なく思ったボランティアは毎日、断り続けるのだが、とうとう根気負けしてDさんの作ってくれた美味しいお粥を食べる事になった。それから毎日、ボランティアの若者達が来るのを楽しみに食事を作るDさんの姿は沢山の事を教えてくれた。

09年3月光明村で行った「中日友好コンサート」を行った際に、Dさんは「小品」と言う芝居を見事に演じた。「あのDさんがこんなに役者だったなんて!」と感動した事を今も覚えている。老年活動センターの5人と共に舞台に上がったDさんは、上述のような当時の様子を話し始めた。その姿はまさしく「語り部」の姿であった。Dさんは当時の思いを胸に抱えながらひとり静かに暮らしている。


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2010年05月14日

中国四川省地震救援ニュース 98

震災2周年となる5月12日の光明村から、Yさんのレポートをお伝えします。

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2010年5月12日 14時28分 この2年間通い続けた北川県光明村で静かに黙祷した。

この日、四川テレビでは朝から特番で北川県城、綿竹市漢旺鎮、青川県、彭州小魚洞、都江堰などの重被災地では、再建された綺麗な町並みやモニュメントを背景に記念式典が執り行われる姿が映し出されていた。

昨年の1周年の際は、北川県城に入り、沢山の遺族の方々が追悼する中、ひとり合掌させてもらった。3日間開放された北川県城は、約30万人が追悼に訪れ、途中の道は3,4時間の渋滞になるほどのにぎわいであった。

2周年の5月12日も地震後、一緒に活動したボランティアの仲間と共に北川県の光明村へと向かった。中央政府や対口支援先の山東省の政府幹部が北川県城での追悼式のために通行規制や渋滞を予想していたが、全く渋滞もなく、スムーズに光明村へとたどり着いた。村はいつもよりどこか静かな感じだった。田んぼで田植えにいそしむ人々、北川県城に追悼に行った人々、いつもと同じようにのどかに暮らす人々など人それぞれであった。

村の医師、Pさんはいつものように笑顔と握手で僕らを迎えてくれ、共に食事をした。地震後に生まれた孫のXくんの遊ぶ姿を見て嬉しそうに笑うPさんの笑顔を2年前、地震直後にはとても想像できなかった。地震の1年前に建てたばかりの4階建ての自宅兼診療所が倒壊し、「自分の命に代えても家を守りたかった」と後にこぼしたPさんは、自分も被災者であると同時に医師として必死に村人の看病に奔走した。その後、張り詰めた糸が切れるかのように鬱になりかけた。そんな時、僕らボランティアがやってきた。最初は警戒していたPさんも次第に心を開き、共に汗を流すようになった。今では、僕らの一番の理解者のひとりである。

診療所を失い、暑い夏も寒い冬もずっとテントで診療していたPさんは、その後、住宅再建が進むにつれて空き屋になっていく仮設住宅の一室を借りて診療所を開いていた。だが、数日前にその仮設住宅も撤去された。震災を思わせる仮設住宅をいつまでも残しておく事はできないという事らしい。診療所の薬品は補修した家の片隅に置かれていた。

今後、政府によって再建される「総合活動センター」に診療所が入るかどうかも未だ決まっていない。当然、自力で診療所を再建する経済的な余裕もない。

これがPさんの「震災2年」の現実である。テレビから映し出される派手な復興の様子と光明村な静けさが対象的であった。

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2010年05月12日

中国四川省地震救援ニュース 97

四川大地震から2年、先日成都に戻ったYさんからレポートが届きましたので、お伝えします。Yさんは、今日は光明村に行って、村人と2年のこの日を過ごすそうです。

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2008年5月12日14時28分 M8.0の巨大地震が四川省を中心に襲った。

あれから2年の月日が流れた。昨年の1周年の際、温家宝首相の発した「復興を加速せよ」という言葉を受けて、急ピッチな再建工事が被災地の至る所で行われている。そのスピード、規模は、今の中国の勢いを象徴しているかのようである。本来、復興計画では3年を目途に住宅、学校、病院、道路などの基本的な社会基盤の復旧を実現するという事であったが、前述の首相の言葉で1年前倒しにして2010年の9月末までに基本的な復旧事業を完了させなくてはいけない。2月の旧正月の際も多くの労働者は帰省もせずに工事に従事した。被災地の中でも最も大きな被害を出した山間部の北川県城(北川県庁所在地)は、断層の上で危険であるという事から元の場所での再建をあきらめ、約20km平場へと移転する事になった。現在、大規模な「新北川」の町を建設中である。巨大な復興事業によって雇用が生まれているが、工事現場で働く人々のほとんどは対口支援先から来た人々である。ハイチのような「Cash for Work」で収入を得る被災者は、四川ではほとんど見られず、震災前と同じように遠くに出稼ぎに行く人々も多い。

政府の発表では、すでに90%以上が住宅再建を終え、入居したという。だが、ほとんどの被災者は迫りくるローンの返済期日に焦りの色を隠せない。農村信用社から借りたお金(最大5万元)を1年目で15%、2年目で35%、3年目で50%返済しなくてはならない。それを過ぎると利子が発生する。08年9月の住宅再建からすでに1年8カ月が過ぎている。未だにローンをどうやって返済しようかと頭を抱える人々も多い。そして、未だ数万世帯が、行き場が決まらず、仮設住宅や掘立小屋で暮らしている事を忘れてはならない。

未だビニールシートの掘立小屋で暮らす什?のある村の被災者の女性がこう語った。「あなたが来年来ても私たちはきっとこのままよ。」

2010年に入ってから世界で立て続けに起きる震災。4月には青海省でもM7.1の地震が、約2300人以上の尊い命を奪った。だが、日本では1か月を待たずに報道はほとんどなくなった。

四川大地震から2年目のこの日を機に今一度、被災地に思いを馳せてみてよう。ハイチへ、チリへ、青海へ、そして四川へも。あらためて震災で亡くなった方々のご冥福をここ四川の被災地で祈る。

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2009年10月05日

中国四川省地震救援ニュース 96

サモア、スマトラと地震災害が続き、津波や地震の被害の様子が伝えられていますが、震災から1年余の四川の状況をYさんレポートでお伝えします。

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「これからどうやって暮らしていけばいいのか分からないよ。」廃墟になった北川県城のそばで細々とお土産を売っているお母さんAさんはそう言った。
 人口約3万人の北川県城(県の中心)では、四川大地震によって約1万5600人の方が亡くなった。そして4300人以上の方が未だ行方不明である。その多くはガレキの山の下で眠っている。Aさんの息子さんとお孫さん二人も同じくガレキの下に眠っている。
Aさんは地震後、政府によって支給された建材でお土産屋の屋台を作り、亡くなった息子さんの奥さんと肩を寄せて暮らしてきた。

 先日、久しぶりに北川県城を訪ねて、驚いた。封鎖された県城の入り口の前にずらりと並んでいたお土産屋台が全くなくなっていた。北川県城の廃墟を見下ろす展望台に追悼にくる観光客を目当てに震災の写真やDVDやチャン族の工芸品などを売る商売がいつの間にか生まれていた。不思議に思い、Aさんに聞いてみると「すぐ裏に道路を建設するんだよ。」と言う。県城が封鎖しているため北部の街に行く事ができない。裏山にトンネルを通して県城を迂回するように道路を建設するそうだ。
「みんな屋台をたたんじゃった。私が最後だよ。午後には撤去しなくちゃ。」と語った。

震災から1年余。ようやく暮らしが落ち着いてきた頃に政府の方針で振り回される被災者たち。でも、たくましい四川の被災者たちはまたどこかで同じような商売を始めるのだろうか。。。
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2009年09月30日

中国四川省地震救援ニュース 95

Yさんは先週末、8回目になる派遣のため四川に戻りました。CODEのプロジェクトである総合活動センター建設もいよいよ着工にかかり、年内に数ヶ所完成の予定です。
出発前にYさんレポートを預かりましたので、少しずつご紹介します。

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ブン川県城から一気に急な山の斜面を700m近く上りきったところに羅卜寨という村がある。標高約2000mの高地に人口928人(229戸)のチャン族の人々が暮らしている。

「中国チャン族第一村」と呼ばれ、ブン川県で最も古いチャン族の村と言われる。
この集落では地震で伝統の土壁の家屋が倒壊し、44名の尊い命が失われた。
遅ればせながら、この集落でも昨年の12月頃から住宅再建が始まった。集落の上の方の田畑として利用していた土地が再建用地となった。だが、標高2000mの寒さの為、セメントが固まりにくいという事で再建工事をストップせざるを得なくなった。
その後、工事は再開され、1周年の5月には新しい家屋が並んだ。

が、しかし再建された約200戸の家屋には人々の姿はあまり見られなかった。再建された家屋で小さな商店を営むおじさんに尋ねると「見てみろ、サビだ。」と天井の黒い斑点を指さした。雨水がしみ込んで鉄筋がさび始めた。外壁にはヒビも入っている。「センメントの質が悪いからこうなったんだ。」と語るおじさんは、細々と商売を営む為に入居をしたようだった。再建された家屋は、高地の気候風土を十分に理解して設計されたのであろうか?
再建された家にいざ入居しようという矢先の事で、住民は不満を隠し切れなかった。

標高2000mの山の斜面の暮らしを対口支援するは年中熱い南の広東省であった事にも原因があるのかも知れない。家は、その土地の暮らしを如実に表すものなのだろう。
posted by CODE海外災害援助市民センター at 15:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 救援ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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