2012年05月16日

【四川省地震4周年レポート】No.4

2008年5月に起きた四川省地震のレポートをお送りします。
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四川省地震4周年レポート No.4
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●対口支援の課題3「格差」 
 四川大地震の被災地は、四川省だけでなく甘粛省、陝西省、重慶市、雲南省などを含み、約50万uという広大な面積を占める。それは日本の国土の総面積約38万uをもはるかにしのぐ。約50万uの被災地には417の市県があり、被災の程度によって激甚災害指定地区のような極重災区、重災区、一般災区の3つに区分されている。被害の甚大な極重災区、重災区だけでも約13万uの広さがある。極重災区は、北川県、ブン川県、都江堰市、綿竹市など10市県、重災区は、四川省理県、江油市、黒水県などの山岳省少数民族エリアなどの29市県と甘粛省、陝西省の12市県、一般災区は、186県市に広がっている。

 四川大地震の復興の中で対口支援によって支援を受けているのは、全被災地417市県の内、四川省の10の極重災区と8の重災区の一部の18市県のみである。(甘粛と陝西の重災区は天津市と広東省によって支援されている。)ここで見落とされているのは、四川省内の29の重災区のうち21の重災区は対口支援がなく、一般災区は、何の支援もないという事になる。対口支援から漏れた被災市県は、ほとんど独自の財源のみで再建を行わなければならない。これは、2009年6月の全人代(全国人民代表大会)の常務委員会によって指摘されており、資金不足で優先的に再建されるべき学校、病院さえも手間取っているという。

 また、対口支援のしくみによる格差も起きている。ブン川県水麿鎮の禅寿老街は広東省仏山市の対口支援によって1800年代の清代の町並みを復元し、見事な復興を遂げた。伝統木造構法で再建された長屋はすべて無料で被災者に提供された。だが、一歩路地を入ると数十万元で自宅を自力再建した被災者もいる。
 一方、北川県内のほとんどの被災地では、個人の住宅はデザインこそチャン族様式で統一再建されたが、費用は、政府の補助金(世帯数によって1.6万〜2.2万元)以外は、すべて個人が多額のローンを組んで返済していかなくてはならない。北川県の人々は、ブン川県の住宅が無料で提供されている事をしる術もない。

 被災地間でこのような格差が起きている原因のひとつには、復興プロジェクトは支援する省市が独自に計画、実施しており、被災地全体での調整、統一がなされていない。支援する省市が競う事で当然このような格差が生じる。また、支援する省市のGDPにも関係している。対口支援ではその省市のGDPの1%以上を使って行う。財政収入の多い省市はそれだけ多くの資金を使って復興事業を行う事が出来る。被災者一人あたりの援助を受ける額は、最も額の多い広東省の支援と黒竜江省の支援の間には40倍以上の開きがあると言われる。4年を迎え、復興宣言をした被災地だが、このような格差の問題はなかなか表に出てこない。
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2012年05月14日

四川省地震4周年レポート No.3

2008年5月に起きた四川省地震のレポートをお送りします。
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四川省地震4周年レポート No.3
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●対口支援の課題2 「雇用」
5月12日14時28分、神戸の自宅でひとり黙祷した。
毎年、被災地でこの日を過ごしてきた。最大の被災地、北川県城へと続く山東大道(山東省の対口支援によって建設されたために名づけられた。)は、きっと今年も遺族に会いに行く多くの被災者の車で渋滞となっているだろう。この4年間で出会った数百、数千の被災者の人々の顔が目に浮かぶ。

 去年(2011年)のこの日、北川県光明村のLさん(40代女性)が、「新しい北川県城に仕事もらいに行ったんだけど、ダメだった。」と語った事を思い出す。
2008年の震災直後から始まった山東省各市の対口支援は、約1年間、北川県内の各郷鎮の支援に取りかかった。山東省青島市は北川県曲山鎮を、済南市は北川県擂鼓鎮を、溜博市は香泉郷をというような具合にカップリングをして、各郷鎮の中心の街の公共の病院、学校、庁舎などを再建した。だが、その下の「村」単位までの支援はなかった。先述の光明村のLさんは、これまでご主人の仕事を手伝いながら、肉体労働の単発のアルバイトを見つけては働いてきた。2009年3月頃に村内に3つのレンガ工場が外省の民間企業によって立て続けに建設され、「村で働ける!」と光明村にわかに活気づいた。だが、レンガの需要はそう長くは続かず、数カ月でことごとく閉鎖していった。

 2009年6月には北川県内に分散していた山東省各市の支援チームは新北川県城(永昌鎮)に集結し、山東省の総力を挙げて「新北川」の復興事業に本腰を入れた。整地、道路、橋などのインフラ整備、学校、病院、博物館、体育館、郵便局、銀行、官庁、ホテル、マンションなど街に必要なものすべてを山東省各市がエリア毎に建設することになった。建設に必要な資材、人材、労働力もほとんど山東省から運搬された。広大な敷地で進む197の復興事業(総費用約68億元=約884億円)にLさんのような被災者の雇用が期待されたが、実際にそこで働く人々のほとんどが、山東省からの出稼ぎ労働者ばかりであった。197のプロジェクトのうち、銀行や電力会社などの国営企業の独自プロジェクト以外は、ほとんどが山東省の対口支援によるものであり、Lさんのような被災者がありつける仕事は、地元の北川県や綿陽市が独自で行うわずかな復興事業のみである。

 震災からちょうど4年。復興事業をほぼ終えた被災地には真新しい綺麗な街が出現した。観光復興を謳う政府だが、現実には観光で収入を得ている被災者はごくわずかである。被災地には相変わらず仕事はそれほどなく、遠く出稼ぎに行く被災者も多い。光明村の半数は、今も家族と離れ離れで暮らしている。
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2012年05月13日

四川省地震4周年レポート No.2

CODE海外災害援助市民センターです。
2008年5月に起きた四川省地震のレポートをお送りします。
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四川省地震4周年レポート No.2
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●対口支援の課題1 「スピード」
2008年5月12日に発生した四川大地震の救援にあたって中央政府は、「対口支援」という独自のシステムを用いて支援を行った。沿岸部などの経済発展を遂げた19の省市と被災地の18の市県がペアを組み、各省市の財政予算の1%を使い、3年間の被災地の支援を行うというものだ。日本でも昨年の東日本大震災後、広域災害の支援として注目され、「1対1支援」、「ペアリング支援」、「マンツーマン支援」、「国内版ODA」など様々な呼ばれ方をしている。

四川大地震の被災地でこの対口支援を使って当初3年の復興事業を2年に短縮し、短期間の復興を遂げた事は世界からも注目をあびた。2012年2月末には事業の約99%を完了させたと「復興宣言」を四川省政府は発表した。

実は、この対口支援は、ケ小平の唱えた「先富論」によって生まれたと言える。「先富起来!」(富める者から豊かになり、貧しきものを助けよ。)という改革開放政策がもたらした沿岸部と西部の格差を埋める為に考えられた「西部大開発」の一環である。1970年代後半からチベット自治区や新疆ウイグル自治区でもインフラ整備や教育などの支援が行われている。

また、1993年より16年の歳月をかけて長江流域に建設された世界最大級の三峡ダムも21省市の対口支援によって行われた。四川大地震後の青海省地震(2010年4月 玉樹地震)でも北京市などの対口支援で復興事業が現在も行われている。

四川大地震後の復興過程の中でこの対口支援は非常に効果を発揮したがその陰で様々な問題も生んでいる。2008年の9月頃より始まった住宅再建の際には、「対口支援」の重視するスピードによって被災者の多くは、「早く建てないと政府の補助金がもらえないんだ。」と住宅再建をじっくり考える暇もなく、再建を急がされた。それによって被災地の至る所に耐震性を十分に考慮されないままの住宅が現れた。

また、広大な被災地で同時に住宅再建が行われた事により、レンガ、鉄筋などの建築資材が約3倍に高騰した。震災前の農村住宅では、平均5〜6万元(65万〜78万円)だったものが、震災後には13万〜15万元(169万〜195万円)に跳ね上がった。

支援側の省市の幹部の中には「いくらいい計画でもスピード感がなくては意味がない」と語る人も出てくるほど対口支援では競争原理が働いた。

遅々として進まない東日本大震災の復興過程と比較すると中国政府の決断力の早さが多くの被災者に安心感を与えた事は評価すべきである。だが、対口支援による復興がスピードを重視し過ぎた為に様々な問題が四川の被災地で起きている事はあまり語られる事はない。
(吉椿雅道)
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2012年05月11日

【四川省地震4周年レポート】No.1

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四川省地震4周年レポート No.1
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2008年5月12日に発生したM8.0の四川大地震(中国では、5.12ブン川大地震)では、死者6万9226人、負傷者37万4643人、行方不明者1万7923人、総被災人口約4600万人、家屋被害(倒壊21万6000棟、損壊415万棟)という未曽有の災害となった。(2008年8月25日 国務院発表) 

被災地は、四川省だけでなく、甘粛省、陝西省、重慶市、雲南省などの10省市、417県を含む総面積約50万平方km、地震を引き起こした龍門山断層の長さ300km以上と広範囲に及び、少数民族の居住する標高2000mを超える山岳部から農村部、人口約1100万人の大都市、成都まで多様な地形、文化を有する地域に大きな被害をもたらした。四川大地震は、1949年の新中国成立以降、その規模から最も甚大な災害だと言われる。(死者数では1976年の河北省唐山地震が勝る。)

最大の被災地、北川県城(曲山鎮)では人口3万人の内、約2万人の命が犠牲となった。4年を経た今も約5000人の亡骸はガレキの下に眠ったままである。毎年、5月12日には国家級の追悼式典がここで開かれ、一般にも無料開放され、沢山の人が追悼に向かう為に数時間の渋滞が起きる。政府は、この甚大な被災地を地震の遺跡公園としてそのままの状態で保存する事と決め、現在、被災地の4か所(北川県城、ブン川県映秀鎮、綿竹市漢旺鎮、都江堰市虹口郷)に地震遺跡と記念館を建設している。北川県城などは昨年よりすでに一般公開されている。

町ごと移転を決めた北川県城は、20qほど平地に下りた場所に新たに再建され、永昌鎮(新北川)と名前を変える事になった。北川県城で被災した人々は、この9平方kmの広大な新しい街、「新北川」に居住している。集合住宅、学校、病院、銀行、郵便局、博物館、体育館などすべては新しく、道や橋も広く、公園、広場も建設され、非常に便利な近代都市に見える。だが、どこか生活の匂いが感じられない。2012年に入って、商店や食堂などは増え、人の姿を見かけるようになったが、その多くは観光客である。また、中心の商店街に店を出しているのは被災者よりも外部から来た人々も多い。街は建設されたが、個人商店以外の仕事はあまりなく、住民の多くは外地へと出稼ぎに出て行く。

震災前この場所は、安県黄土鎮と呼ばれ、広大な田畑が広がる田園地帯だった。春には一面の菜の花が黄色く広がっていた。ここで暮らしていた約1万人農民は、再建期間中、別の場所へと移転を迫られ、再建が終わった2011年に戻って入居した。だが、ようやく帰ってきた故郷の風景はまったく違ったものになっていた。これまで土を作ってきた400平方mの農地はすでになく、あるのは約30平方mのマンションの一室のみである。数十年も土地を耕して生きてきた農民は、4年を経た今、どんな思いで暮らしているのだろう。

2012年2月、四川省政府は約540万世帯、約1200万人の住宅を建設し、失業問題も解決し、復興事業もほぼ完了したと実質の復興宣言を発表した。華やかな復興宣言の陰に沢山の見えない問題、課題がある。震災から4年を機に今後、少しずつ振り返っていく。
(吉椿雅道)

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再建された新北川の街

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新北川の観光商店街

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2011年10月22日

中国四川省地震救援ニュース110


CODE事務局です。
久しぶりの投稿となりましたが、中国・四川省地震被災地のプロジェクトニュースです。
皆様の継続的なご支援のおかげで、「光明村老年活動センター」が完成しました。
ご協力に心から感謝申し上げますとともに、ここに報告させていただきます。
 
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四川大地震救援プロジェクト
「光明村老年活動センター」完成 !!!

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2008年5月12日に発生した四川大地震では、死者6万9226人、行方不明者1万7923人という大惨事となった。発災3日後より四川省の被災地へと入り、支援活動を行ってきた。

これまでCODEは、北川県羌族自治県香泉郷光明村(人口約700人)を中心に、@ガレキの除去作業、A仮設住宅建設のサポート、B住宅再建のサポート(耐震住宅の勉強会、建築専門家の紹介、新住宅デザインの提供など)、B村祭りの共同開催、C日本の災害、復興の専門家の視察コーディネートなど活動を行ってきた。

2010年4月より開始したCODEのメインプロジェクトである「光明村老年活動センター」が2011年8月末に完成した。

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木造瓦葺の家屋は、中庭で人々が集えるようにと中国伝統三合院(三方が家屋で中庭のあるコの字型)の様式を採用し、釘を使わない石場立て、木造軸組み構法で建築され、耐震性にも配慮されている。設計は、四川省では寺院建築で有名な四川省古建築設計研究院(都江堰市)にお願いした事もあって見事な匠の技が活かされた建築となった。

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9月25日、光明村にて鍵の引き渡し式が行われた。中国側は、香泉郷人民政府副郷長、綿陽日報、北川テレビ局などの来賓にもご参加いただき、日本側もCODEの代表理事や最大ドナーでもあるコープこうべの方々、そして現地で共に汗をかいたボランティアの仲間にもご参加いただいた。光明村自慢の踊り、歌、演劇などの披露と日本側の歌、羌族様式のもてなしの杯、村民のお手製の料理など村民の熱烈歓迎ぶり、そして高齢者の方々や子ども達にも沢山集まっていただき盛況な集いとなった。

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最後に村民から頂いた感謝の旗にはこう書かれている。
「一衣帯水:無私大愛情暖光明村民、心手相牽:日中友誼子孫世代伝承」

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村民の中には「こんな立派な建物を建ててもらったのだからちゃんと使わないと!」、「ここはあなた達の戻ってくる家だから。」、「いずれこれを利用して光明村の発展を考えたい。」などの声が上がっている。

3年半を経た現在の被災地では、住宅再建によるローン返済の為に多くの人々は外地へと出稼ぎに出ている。村に残されるのは、主に高齢者、子ども達である。そんな状況で、この老年活動センターは、残された高齢者がお茶を飲んだり、麻雀をしたり、子ども達は本を読んだり、遊んだりする村民の集う場所を目的として建設された。また、また再び災害に襲われた際の避難拠点にもなり得るだろう。

今後、村民が主体的に考え、このセンターを管理、運営していく。高齢者、子ども達の集いの場としてだけでなく、光明村の発展の為の施設として、震災をきっかけにした日中の交流拠点としても活用されていく事を願う。
(吉椿雅道)


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2011年05月19日

中国四川省地震救援ニュース109

2008年5月12日に起きた中国・四川省の地震から3年が過ぎました。
四川省にいる吉椿のレポートです。
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四川大地震3周年レポート6
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3周年を迎えた四川大地震の広大な被災地では、政府の言うように3年を目途に大規模かつスピーディーな再建が見事になされた。だが、それに伴って様々な課題も残る。

約300kmに渡る被災地に無数の新しい街が再建された。そして、多くの場所で地震の傷跡を保存した遺跡観光地が生まれた。旧北川県城、青川県、ブン川県映秀鎮、綿竹市漢旺鎮など極重災区(激甚災害地区)は、どこも同じような遺跡や民族色を活かした観光地になっている。

漢旺鎮で細々と土産物を売るZさん(60代女性)は、「5.12前後は、人は多いけどねえ。。。」とどこか不安気に言う。この漢旺鎮は元々、企業城下町で、東方汽輪機(東汽)という車のタービンを製造する会社の工場が誘致された事によってこの町が発展して来た。工場周辺には従業員の為の学校、銀行、公安局、郵便局、レストラン、社宅などがあり、ここに暮らす人々は東汽に何かしら関係していたと言われる。

地震によって東汽の従業員も約300人が犠牲になり、壊滅的な被害を受けた漢旺鎮は、閉鎖されずっとゴーストタウンのようになっていたが、現在、観光地としての準備を進められている。だが、東汽は断層上にある漢旺鎮での再建をあきらめ、徳陽市に移転した。漢旺の新しい街は、遺跡のすぐ近くに立派に再建されたが、東汽を失った今の漢旺鎮に「仕事」はない。

被災地に誕生した無数の観光地。だが、1年を通して継続的に観光客が来るという保証はなにもない。また、観光に携われるのは被災者のごく一部である。そして、地震遺跡には今も沢山の命が眠っている。3年経った今も遺族は、倒壊した家屋の前に花を手向け、お香を焚き、祈りを捧げている。

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2011年05月17日

中国四川省地震救援ニュース108

2008年5月12日に起きた中国・四川省の地震から3年が過ぎました。
四川省にいる吉椿のレポートです。
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四川大地震3周年レポート5
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ブン川県映秀鎮。世界遺産、都江堰に流れ込む泯江の上流に当たり、周囲は急峻な山に囲まれた谷あいの町である。震源地に近い事もあり、映秀鎮では人口約16000人の内、死者、行方不明者を合わせると約9000人を超える被害を出した。

あれから3年。

5月12日、映秀鎮の中心部にある?口中学校では毎年恒例の追悼式典が行われた。児童、教師が犠牲になったこの中学校は地震遺跡として保存されている以外、被災地を想像させる場所はどこにもない。映秀鎮の町は元の場所に綺麗に再建され、今後、農業と観光で発展させる方針だが、3年経った今、そこに生きる被災者にとって現実はまだまだ厳しい。

映秀の町を見下ろすように並ぶ漁子渓村にも真新しい住宅群が完成して久しいが、入居しているのはほんの一部だ。顔なじみのおばちゃんLさん(50代)は、「まだ内装が出来ていないから・・」と口を濁すが、実際は十数万元する新住宅に入居する費用が払えないということのようだ。

漁子渓村のバラック小屋に未だ住んでいる人は少なくないが、自前の小屋で細々と商売を営むAさん(50代女性)は、「若い人は出稼ぎに行ったり、観光客相手に土産物売って日銭を稼いでいるけど、大した仕事はないねえ。」、「観光客は、映秀を通り過ぎるだけ。皆、都江堰や成都に戻るからねえ。」と将来の不安を隠せない。

目の前に再建された住宅を見ながらAさんは、「震災前、あの場所に畑があったんだ。今はそれもできないよ。」と語る。周りを山に囲まれた映秀鎮には元々耕作できる土地は少ない上に、地震による地滑りなどで鎮の総耕作面積140万平方メートルのうち、約半分の土地を失った。周りの山の斜面には今も草木は生えず、岩肌を露わにしている。

未だバラック小屋に住む被災者の人々と目の前の真新しい住宅群のコントラストが、3年経った今の被災地である。

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2011年05月16日

中国四川省地震救援ニュース107

2008年5月12日に起きた中国・四川省の地震から3年が過ぎました。
四川省にいる吉椿のレポートです。
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四川大地震3周年レポート4
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北川県光明村の住民の多くは、現金収入を出稼ぎに頼らざるを得ない。震災によって住宅再建に多額のローンを組んだ為、出稼ぎにより拍車がかかった。震災後に外資によって村にレンガ工場が3つ誘致され、村民は遠く出稼ぎに行く必要がなくなった。だが、1年を待たずにことごとく閉鎖され、村民は再び職を失った。

Mじいちゃん(79歳)は、小学生の孫Aくんと二人きりだ。Aくんの両親は浙江省に出稼ぎに行っている。震災後、Mじいちゃんの息子さんは木造住宅を再建した。木造を再建する事を決めたのはMじいちゃんの強い希望からだった。小さい頃から木造住宅で暮らしてきたMじいちゃんだが、数年前に建てたレンガの家がこの地震で倒壊した。「やっぱり木造がいい。倒壊した家のレンガはもう使えないけど、木材は再利用出来るからなあ。」と少し自慢げに語る。

そんなMじいちゃんは、最近、よく村の診療所を訪れる。どこか体が悪い訳ではないようだ。医師のPさんによると「寂しいんだろうなあ。」という事だった。

CODEの建設する老年活動センターは、中庭のある伝統木造の三合院だ。出稼ぎで若者のいない村に残る高齢者や子ども達がこの施設を活用することになる。センターが出来れば、村の高齢者で作る老年活動クラブの元代表でもあったMじいちゃんは、今度はきっとここに来るだろう。村の書記Lさんは、「今年の老年節の祭りは、このセンターでやりたいなあ。」と語った。


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2011年05月14日

中国四川省地震救援ニュース106


2008年5月12日に起きた中国・四川省の地震から3年が過ぎました。
四川省にいる吉椿のレポートです。
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四川大地震3周年レポート3
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2011年5月12日。四川大地震から3年。

政府の発表では、被災地では約220万戸の住宅の再建を終え、復興計画の95%のプロジェクトが完了したという。

北川県光明村でもほとんどの住民は住宅再建を終えた。だが、村はどこか閑散としている。村の医師であるPさんに訊くと「今は村民の半分もいないだろうなあ。」という。今年9月の住宅ローン返済期限を目前に村民の多くは出稼ぎに出ている。遠く新疆ウイグル自治区まで行っている人々もいる。

本来8人家族のPさんは、今は、孫のWくん(2歳半)とHくん(10歳)と奥さんの4人のみで暮らしている。Wくんのお父さんは青海省の建設現場へ、お母さんは江油市の農家楽(※)へと出稼ぎに行っていて、お母さんは月に3日の休みの時のみしか帰って来られない。Pさんの診療所は国の資金で立派に再建されたが、閑古鳥が鳴いている。「皆、出稼ぎに出てて、人がいないから診察に来る人も少なくて、収入もあんまりないよ。」とこぼす。

Pさんは震災前、他の家と同じように豚を飼っていた。子豚を売ったり、春節などの祭りの時にさばいて食する。だが、退耕還林(畑を森林に戻すという国のプロジェクト)によって土地を収用され、「豚の飼料のトウモロコシを作る土地がないから、今は豚も飼えないないよ。」と言う。そんなPさんの息子、娘夫婦は遠くで一生懸命働いている。そうやって被災者の人々は3年経った今も家族皆で支え合って生きている。

(※農家楽…中国で行われている、農村の自然や文化を都市部の人々に楽しんでもらうグリーンツーリズム)
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2011年05月13日

中国四川省地震救援ニュース105

2008年5月12日に起きた中国・四川省の地震から3年が過ぎました。
四川省にいる吉椿から、レポートをお送りします。
震災を経験した四川の人たちが、東日本の人たちの痛みを想ってくれています。
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四川大地震3周年レポート2
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北川県香泉郷光明村。人口約700人のどこにでもあるような普通の村に地震が起こった。

地震発生時の14時28分、多くの村民は田植えの為に外に出ていた。それが幸いして村内で亡くなった人はいなかったが、190戸中8割は全半壊、再建を余儀なくされた。

あれから3年。

5月12日、光明村では3年前と同じように村民は田植えに忙しい。隣近所の田植えを皆で手伝う「結」がここでは今も活きている。出稼ぎ先から近所の田植えの手伝いの為にXさん(30代女性)は戻ってきた。「久しぶりだから今日は皆でご飯食べよう!」と僕らを誘ってくれた。

食事中の話題の中心は東日本大震災の話。XさんやLさん(40代女性)は地震の被害と津波の被害の違いにもじっと耳を傾けてくれた。3年前に自分達が大変な思いをしたので他人事ではないようだ。震災で価値観が変わったという事を耳にするが、Xさんもその一人だろう。

「自分達も震災を経験したから、日本から沢山学ばなくてはいけない」と語った。東日本大震災の発生直後、四川地震後に共に活動したボランティアの有志が四川の被災者から東北の被災者へのメッセージを集めてくれた。山形県米沢市の避難所で今も被災者の方々が光明村の人々のメッセージを見ているだろう。国は違っても震災という痛みを受けた被災者同士だからこそ分かる事があるはずである。

そんなXさんは08年12月誰よりも早く木造住宅を再建し始めた。だが、3年経った今も家はまだ完成していない。震災後、夫婦共に職を転々とし、資金が集まったら材料を買い、再び家に手を入れる。そうしながら少しずつ家を作って来た。今年9月の住宅ローンの返済期限を目前に家族バラバラに出稼ぎに出る事を選択したXさん家族。

数か月ぶりに出稼ぎ先の成都から村に戻って来たXさんは、とても楽しそうに村人と田植えをしていた。Xさんにはやっぱり光明村が似合うなあとつくづく思った。

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四川の方々からのメッセージはこちらに掲載しています。
■「ぼくの地球を走る旅」メッセージを集めてくれたNさんのブログ
http://ameblo.jp/masanori0615/entry-10832916212.html

■CODE東日本大震災ブログ
http://tohopacificcoast.seesaa.net/

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