2011年05月12日

中国四川省地震救援ニュース104


2008年5月12日に起きた中国・四川省の地震から、今日で3年を迎えました。
私どもCODEは、スタッフ吉椿雅道を現地に派遣し、直後のがれき拾いからはじまり、住民の方々に寄り添う活動を続けてきました。
現在、四川省にいる吉椿から、3年を迎えた被災地のレポートをお送りします。
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四川大地震3周年レポート1
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2008年5月12日14:28 四川大地震(中国では5.12?川大地震)が発生した。四川省の北東から南西に走る約300kmの龍門山断層が動いた事によって、その被害は断層沿いに300km以上に及び、死者6万9226人、負傷者37万4643人、行方不明1万7923人という惨状となった。

あれから3年。

広大な被災地の町は、急速なスピードで再建された。中国独自の「対口支援」(各被災地を沿岸部の経済発展をした省市がそれぞれ担当して支援する)というシステムを活用し、被災地各地に大規模かつ真新しい都市が再建された。

死者行方不明者約2万人という被害を出した北川県城(曲山鎮)は、町が断層上にあり、危険だという理由から元の場所での再建を断念し、町を約20km離れた平地に移転する事になった。わずか2年で新しい町(永昌鎮)が再建されたが、鎮内約7400戸のマンション群に入居しているのはまだ僅か。大学のようなキャンパスを持つ北川中学、人民医院、スタジアム、博物館、商業街などは完成し、すでに活用されているが、広大な町の中で生活するためのスーパーや銀行、郵便局などは未だ建設中で町としての機能が不十分である。

震災前にこの土地に住んでいた高齢者はいち早く入居したが、「広すぎて不便だわ。」という。バスなどの町内交通がまだ整備されていない町で買い物ひとつも数十分歩いて行かなくてはならない。これまで田畑を耕して暮らしてきた農村高齢者にとってこの真新しいマンションと街にはなかなか馴染めない。「子ども達は出稼ぎに行ってて、する事がなくてねえ。」とブラブラしている。そんな高齢者たちがいつの間にか川沿いの橋のたもとに集まって麻雀したり、井戸端会議をするようになっている。

新北川(永昌鎮)は、非常に速いスピードで綺麗な町が再建された。だが、そこにまだ暮らしの匂いが感じられない。復興計画では、今後、産業エリアも建設し、新住民を引き入れ、最終的に2020年までに7万人の町にする予定だ。そこに暮らす人々が胸を張ってここが自分達の故郷だと言える日はいつになるのだろう。

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四川大地震・支援プロジェクト経緯
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CODEは地震直後よりスタッフ吉椿雅道を派遣しました。吉椿は様々な被災地を調査した後、北川県香泉郷光明村において、がれきの片付けをはじめ住民の方々との寄り添い・協働を行ってきました。

既にニュースレターやHPなどでご報告しておりますが、当初建設を予定していた「総合活動センター」(医療施設等を含む)は、中国政府によって建設されることになったため、昨年、村の方々と協議の上この計画を変更し、「老年活動センター」の建設に取り組んでいます。

「老年活動センター」とは、中国の村では一般的な施設で、その名の通り高齢者が集い様々な活動を行うふれあいの場です。また、私たちもKOBEの経験から、高齢者を孤立させることなく元気づける場の大切さを学んできました。

これを、いま香泉郷には数少ない木造の耐震モデルとして建築することにより、地震の際「木造の家は壊れにくかった」という人々の体験を具体的にアピールすることができます。そのため、高齢者の娯楽室、運動用スペースのほかに建物の骨組みが一部見えるようになった「震災展示室」を作ります。また、子ども向けの図書室も備えるなど、高齢者に限らず住民が広く利用できる場となる予定です。特産品作りなど、村おこしにつながる活動の拠点にしたいという話も出ています。

皆様には長らくご心配をおかけしましたが、昨年11月20日、CODE代表理事が光明村を訪問して本プロジェクトに係る調印を行いました。いま、吉椿が最終調整に入っています。今後も、これまで築いてきた光明村の人たちとの絆を大切に、「人と人とがつながる」支援を行っていきます。温かく見守っていただけますよう宜しくお願い致します。

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2010年11月10日

中国四川省地震救援ニュース 103

久しぶりにYさんレポートをお届けします。

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「重陽」という言葉をご存じだろうか。
陰暦(旧暦)の9月9日を日本でも「重陽の節句」、「菊の節句」と呼ばれ、五節句のひとつでもある。陽が重なると書くが、中国では奇数が陽数、偶数が陰数と呼ばれ、1月1日(元旦)、3月3日(上巳)、5月5日(端午)、7月7日(七夕)など陽数の重なる節目の日に様々な行事を行ってきた。最大陽数である「9」が重なることから「重陽」(ちょうよう)と呼ぶようになった。かつてこの日は、「菊の節句」の名の通り、平安時代は「観菊の宴」も催され、菊の花を飾ったり、菊酒(花びらにビタミンC.Eを含む)を飲み、邪気を払い、長寿を祈ったと言われる。そこから現在、中国では旧暦の9月9日は「老年節」(敬老の日のようなもの)と呼ばれている。日本では旧暦はすっかり影を潜めているが、中国では現在でも祝日や誕生日など旧暦が日常生活に用いられている。

 CODEが震災直後から支援している北川県光明村で「重陽節」の祭りを兼ねた「中日友好聯歓会」を開催した。震災後から今回で3回目になるが、村の財政不足やそれぞれの経済的事情によって中止という話もあったが、老年活動クラブや村人有志の熱い希望とボランティアの協力で実現する事になった。
老年節という事で客席の最前列には村の高齢のじいちゃん、ばあちゃんの席が用意され、チャン族の伝統的な音楽、踊りに始まり、村人の歌や芝居、そして日本人、韓国人、中国人ボランティアの歌なども披露され、その後の宴まで大いに盛り上がった。最終演目の「朋友」(友達)という中国語の歌を全員で歌い終わった後、僕らがそでに下がろうとした時、「そのまま!」と呼び止められた。すると、村で一番の仲良しであるお母さん、Xさん(38歳 女性)から大きな額をプレゼントされた。そこには「中日友好一家親」(家族のような中日友好を!)と刺繍で書かれてあった。このXさんは、村の中でもひときわ経済的に大変な状況にあり、再建した自宅も資金不足ゆえに未だ2階部分は完成していない。そんな状況の中、この日の為に数カ月もかけてコツコツと刺繍を仕上げたと思うと涙が溢れた。最近よく、Xさんは、「何もしなくていい。ボランティアの皆が顔を見せに来てくれるだけでいい。」とつぶやく。やはり、目の前のひとりひとりと確実につながっていく事が本当の国際理解を創り出していくのだろう。

 奇しくも、この祭りの行われた10月16日の同時時刻、四川省の省都、成都で大規模な反日デモが行われた。被災地の小さな農村では暖かい祭りが行われ、一方では過激なデモが行われる。日本にいると一部の報道が、すべてであるように思ってしまう。
震災は、これまでの価値観を大きく転換する機会にもなると言われているはずなのに。。。
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2010年05月31日

中国四川省地震救援ニュース102

引き続き、現地スタッフYさんより、震災から2年が過ぎた四川の様子をお伝えします。

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壊滅的になった北川県城(老北川)は、約20km南東の平場に移転し、今年の9月には基本的な工事を終え、永昌鎮(新北川)という名で新しい北川県城としてスタートする。

一方、未だガレキの下に約5000名の人々の眠る廃墟、老北川は、「北川地震記念館」の名で震災の傷跡を地震遺跡としてそのまま残す計画である。

2周年記念日を終えた5月15日、これまで封鎖されていた老北川県城は、正式に申請をすれば一日1000人を限度に見学できるようになった。擂鼓鎮には接待センターも完成し、遺跡記念館建設の全体図も展示され始めた。

計画では、エリアを3つに分け、@県城遺跡エリアでは、222棟の倒壊した建物は保存レベル別に分け、そのままの形で残される。A記念館エリアでは、手前の北川中学のあった一帯に「地震記念館」を建設する。そしてB二次災害展示エリアでは、地震後の塞き止めダム湖と土石流発生エリアである。この地震遺跡は約500haの面積になり、周辺の山間部の調整エリアも含めると全体で約3500haの規模になる。四川の被災地ではこのような大規模な記念館はここ北川のみで、地震遺跡としては他に映秀(?川)の震源記念地、漢旺(綿竹)の工業遺跡記念地、虹口(都江堰)の地震遺跡記念地の3つが計画され、すでに着工している所もある。

多くの被災者は地元での仕事は少なく、多額のローンを返済していかなくてはならない。様々な復興事業とその後の新しい街、施設で働ける被災者は決して多くはない。被災者の息遣いの聞こえるような暮らしの復興が求められる。
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2010年05月25日

中国四川省地震救援ニュース101

引き続き、現地スタッフYさんより、震災から2年が過ぎた四川の様子をお伝えします。

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廃墟と化した北川県城を見下ろす「望郷台」でお土産を売り、写真を撮って生計を立てるPさんは、いつも笑顔と握手で迎えてくれる。最近、体調を崩していたようで久しぶりに会って、二人でゆっくりと話す事ができた。

Pさんは、「この場所ももうすぐ終わりだな。」と肩を落とす。現在、北川県城では地震遺跡に向けて工事が進められているが、2周年を過ぎ、一般の見物客にも開放され始めた。これまで多くの見物客はこの望郷台で北川県城を眺め、追悼して、お土産を買って帰っていたが、県城が開放されると今後、望郷台に行く人はいなくなるのは必至である。

「中ではお土産売りはできないだろうな。せめて写真撮影の仕事でも出来ればいいけど。」と将来の不安を隠せない。「もし、だめだったら土方仕事でも何でもするつもりだが、もうこの歳じゃ、どこも雇ってくれないしなあ。田畑を耕せば食べるぐらいは出来るけどだろうけど。」と語るPさんだった。

Pさんは住宅再建で、4万元の借金をした。だが、期限の過ぎた今も返済できないでいる。「返済できる人なんてわずかだよ。」という。政府は住宅の97%が住宅再建を終えたというが、「そんな訳ないよ。見てみろ、あの集合住宅だって1年近く工事しているが、未だ完成してないだろう。」と向かいの山の斜面には再建中の住宅群を指さした。「1年前に始まったトンネル工事だってたった100mしか掘れていないんだ。」と賃金が払われずに労働者がいなくなった事を教えてくれた。対口支援で派手に進む復興事業とは違う現実がここにあった。
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2010年05月24日

中国四川省地震救援ニュース 100

現地スタッフYさんより、震災から2年が過ぎた四川の様子をお伝えします。

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中国では四川大地震を「5.12ブン川大地震」と呼ばれているが、「北川大地震」と呼ぶべきだという被災者も多い。最も多くの被害を出した北川県城は、人口3万人のうち、約2万人が帰らぬ人となり、未だ約5000人がガレキの下に眠ったままである。08年6月の塞き止めダム崩壊による水害、08年9月の土石流も発生し、ずっと封鎖されたままで、一部関係者のみ立ち入り禁止である。今年も5月12日には一般に開放されたが、昨年の30万人ほどの人出はなく、約8万人ほどだったという。

通常、中に入れない被災者の人々はいつの間にか高台から見下ろせる場所「望郷台」から故郷を想うようになった。「望郷台」では、今も被災者の人々によって地震の写真、DVD、チャン族の工芸品などのお土産が売られている。そして、ここは被災者によって「沈痛悼念5.12遇難同胞」と書かれた追悼碑が建てられ、いつの間にか「祈りの場」となっている。追悼碑のそばには線香とロウソク、紙銭が置かれており、志しを払ってお参りする。僕も何度となくここに立ってささやかな祈りを捧げさせてもらった。

だが、2周年を前にここにあったすべての追悼碑やお土産の屋台は地元政府によって取り壊された事を知る者は少ない。顔見知りのお母さんは、「こんな事をするなんて。。。」と目を真っ赤にしていた。たまたま参拝に来ていた大学生にこれを見て、どう思うか訊ねてみると「心が痛む。。」と言って、じっと壊された碑を見つめていた。
2周年を過ぎた今、人々は再び、お土産屋台を再開し、碑のなくなった場所には祈りの線香が絶える事はない。復興のスピードがますます加速する中、被災者の人々はこんな現実を生きている。
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2010年05月21日

中国四川省地震救援ニュース 99

震災後2年を経た光明村から、引き続きYさんのレポートをお伝えします。

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あの大地震から2年を経た今、被災者の思いもそれぞれだ。
直後から支援している光明村のDさん(60代女性)は2周年のこの日、村でひとり静かに食事をしていた。僕らが訪ねて行くと、嬉しそうに食事を出したり、果物でもてなしてくれた。僕が、「あれから2年だね。何人かの村人は、北川県城に行ったみたいだね。」と言うとDさんは、「色々と思いだすから私は行かないわ。。。」といい、当時の様子を少し語ってくれた。

5月12日、光明村の芸能部である「老年活動センター」の一員であるDさん達5名は、自らの芝居や踊りを披露する為に北川県城へと向かった。衣装にも着替え、さあ、これから自分達の出番という所で大地が激しく揺れた。何が何だか分からずに、命からがら建物から飛び出したDさんは、背中から右腕にかけて怪我を負った。混沌とする中、乗せてくれる車もなく、5時間かけて山を越えて光明村へと帰った。村にたどり着くと見渡す限りの家がガレキと化し、失意のどん底にあったそうだ。

直後に光明村でボランティアが、ガレキの片づけを行っていると「あそこのお母さんは一人暮らしだから手伝ってあげて!」という声がかかり、Dさん宅の倒壊した厨房や豚小屋の片づけが始まった。連日、暑い中黙々と汗を流し、自ら持参したカップラーメンを食べるボランティアの姿を見たDさんは、「そんなもの食べていたら体壊すよ!私がご飯作るから食べなさい!」と言う。申し訳なく思ったボランティアは毎日、断り続けるのだが、とうとう根気負けしてDさんの作ってくれた美味しいお粥を食べる事になった。それから毎日、ボランティアの若者達が来るのを楽しみに食事を作るDさんの姿は沢山の事を教えてくれた。

09年3月光明村で行った「中日友好コンサート」を行った際に、Dさんは「小品」と言う芝居を見事に演じた。「あのDさんがこんなに役者だったなんて!」と感動した事を今も覚えている。老年活動センターの5人と共に舞台に上がったDさんは、上述のような当時の様子を話し始めた。その姿はまさしく「語り部」の姿であった。Dさんは当時の思いを胸に抱えながらひとり静かに暮らしている。


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2010年05月14日

中国四川省地震救援ニュース 98

震災2周年となる5月12日の光明村から、Yさんのレポートをお伝えします。

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2010年5月12日 14時28分 この2年間通い続けた北川県光明村で静かに黙祷した。

この日、四川テレビでは朝から特番で北川県城、綿竹市漢旺鎮、青川県、彭州小魚洞、都江堰などの重被災地では、再建された綺麗な町並みやモニュメントを背景に記念式典が執り行われる姿が映し出されていた。

昨年の1周年の際は、北川県城に入り、沢山の遺族の方々が追悼する中、ひとり合掌させてもらった。3日間開放された北川県城は、約30万人が追悼に訪れ、途中の道は3,4時間の渋滞になるほどのにぎわいであった。

2周年の5月12日も地震後、一緒に活動したボランティアの仲間と共に北川県の光明村へと向かった。中央政府や対口支援先の山東省の政府幹部が北川県城での追悼式のために通行規制や渋滞を予想していたが、全く渋滞もなく、スムーズに光明村へとたどり着いた。村はいつもよりどこか静かな感じだった。田んぼで田植えにいそしむ人々、北川県城に追悼に行った人々、いつもと同じようにのどかに暮らす人々など人それぞれであった。

村の医師、Pさんはいつものように笑顔と握手で僕らを迎えてくれ、共に食事をした。地震後に生まれた孫のXくんの遊ぶ姿を見て嬉しそうに笑うPさんの笑顔を2年前、地震直後にはとても想像できなかった。地震の1年前に建てたばかりの4階建ての自宅兼診療所が倒壊し、「自分の命に代えても家を守りたかった」と後にこぼしたPさんは、自分も被災者であると同時に医師として必死に村人の看病に奔走した。その後、張り詰めた糸が切れるかのように鬱になりかけた。そんな時、僕らボランティアがやってきた。最初は警戒していたPさんも次第に心を開き、共に汗を流すようになった。今では、僕らの一番の理解者のひとりである。

診療所を失い、暑い夏も寒い冬もずっとテントで診療していたPさんは、その後、住宅再建が進むにつれて空き屋になっていく仮設住宅の一室を借りて診療所を開いていた。だが、数日前にその仮設住宅も撤去された。震災を思わせる仮設住宅をいつまでも残しておく事はできないという事らしい。診療所の薬品は補修した家の片隅に置かれていた。

今後、政府によって再建される「総合活動センター」に診療所が入るかどうかも未だ決まっていない。当然、自力で診療所を再建する経済的な余裕もない。

これがPさんの「震災2年」の現実である。テレビから映し出される派手な復興の様子と光明村な静けさが対象的であった。

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2010年05月12日

中国四川省地震救援ニュース 97

四川大地震から2年、先日成都に戻ったYさんからレポートが届きましたので、お伝えします。Yさんは、今日は光明村に行って、村人と2年のこの日を過ごすそうです。

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2008年5月12日14時28分 M8.0の巨大地震が四川省を中心に襲った。

あれから2年の月日が流れた。昨年の1周年の際、温家宝首相の発した「復興を加速せよ」という言葉を受けて、急ピッチな再建工事が被災地の至る所で行われている。そのスピード、規模は、今の中国の勢いを象徴しているかのようである。本来、復興計画では3年を目途に住宅、学校、病院、道路などの基本的な社会基盤の復旧を実現するという事であったが、前述の首相の言葉で1年前倒しにして2010年の9月末までに基本的な復旧事業を完了させなくてはいけない。2月の旧正月の際も多くの労働者は帰省もせずに工事に従事した。被災地の中でも最も大きな被害を出した山間部の北川県城(北川県庁所在地)は、断層の上で危険であるという事から元の場所での再建をあきらめ、約20km平場へと移転する事になった。現在、大規模な「新北川」の町を建設中である。巨大な復興事業によって雇用が生まれているが、工事現場で働く人々のほとんどは対口支援先から来た人々である。ハイチのような「Cash for Work」で収入を得る被災者は、四川ではほとんど見られず、震災前と同じように遠くに出稼ぎに行く人々も多い。

政府の発表では、すでに90%以上が住宅再建を終え、入居したという。だが、ほとんどの被災者は迫りくるローンの返済期日に焦りの色を隠せない。農村信用社から借りたお金(最大5万元)を1年目で15%、2年目で35%、3年目で50%返済しなくてはならない。それを過ぎると利子が発生する。08年9月の住宅再建からすでに1年8カ月が過ぎている。未だにローンをどうやって返済しようかと頭を抱える人々も多い。そして、未だ数万世帯が、行き場が決まらず、仮設住宅や掘立小屋で暮らしている事を忘れてはならない。

未だビニールシートの掘立小屋で暮らす什?のある村の被災者の女性がこう語った。「あなたが来年来ても私たちはきっとこのままよ。」

2010年に入ってから世界で立て続けに起きる震災。4月には青海省でもM7.1の地震が、約2300人以上の尊い命を奪った。だが、日本では1か月を待たずに報道はほとんどなくなった。

四川大地震から2年目のこの日を機に今一度、被災地に思いを馳せてみてよう。ハイチへ、チリへ、青海へ、そして四川へも。あらためて震災で亡くなった方々のご冥福をここ四川の被災地で祈る。

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2009年10月05日

中国四川省地震救援ニュース 96

サモア、スマトラと地震災害が続き、津波や地震の被害の様子が伝えられていますが、震災から1年余の四川の状況をYさんレポートでお伝えします。

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「これからどうやって暮らしていけばいいのか分からないよ。」廃墟になった北川県城のそばで細々とお土産を売っているお母さんAさんはそう言った。
 人口約3万人の北川県城(県の中心)では、四川大地震によって約1万5600人の方が亡くなった。そして4300人以上の方が未だ行方不明である。その多くはガレキの山の下で眠っている。Aさんの息子さんとお孫さん二人も同じくガレキの下に眠っている。
Aさんは地震後、政府によって支給された建材でお土産屋の屋台を作り、亡くなった息子さんの奥さんと肩を寄せて暮らしてきた。

 先日、久しぶりに北川県城を訪ねて、驚いた。封鎖された県城の入り口の前にずらりと並んでいたお土産屋台が全くなくなっていた。北川県城の廃墟を見下ろす展望台に追悼にくる観光客を目当てに震災の写真やDVDやチャン族の工芸品などを売る商売がいつの間にか生まれていた。不思議に思い、Aさんに聞いてみると「すぐ裏に道路を建設するんだよ。」と言う。県城が封鎖しているため北部の街に行く事ができない。裏山にトンネルを通して県城を迂回するように道路を建設するそうだ。
「みんな屋台をたたんじゃった。私が最後だよ。午後には撤去しなくちゃ。」と語った。

震災から1年余。ようやく暮らしが落ち着いてきた頃に政府の方針で振り回される被災者たち。でも、たくましい四川の被災者たちはまたどこかで同じような商売を始めるのだろうか。。。
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2009年09月30日

中国四川省地震救援ニュース 95

Yさんは先週末、8回目になる派遣のため四川に戻りました。CODEのプロジェクトである総合活動センター建設もいよいよ着工にかかり、年内に数ヶ所完成の予定です。
出発前にYさんレポートを預かりましたので、少しずつご紹介します。

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ブン川県城から一気に急な山の斜面を700m近く上りきったところに羅卜寨という村がある。標高約2000mの高地に人口928人(229戸)のチャン族の人々が暮らしている。

「中国チャン族第一村」と呼ばれ、ブン川県で最も古いチャン族の村と言われる。
この集落では地震で伝統の土壁の家屋が倒壊し、44名の尊い命が失われた。
遅ればせながら、この集落でも昨年の12月頃から住宅再建が始まった。集落の上の方の田畑として利用していた土地が再建用地となった。だが、標高2000mの寒さの為、セメントが固まりにくいという事で再建工事をストップせざるを得なくなった。
その後、工事は再開され、1周年の5月には新しい家屋が並んだ。

が、しかし再建された約200戸の家屋には人々の姿はあまり見られなかった。再建された家屋で小さな商店を営むおじさんに尋ねると「見てみろ、サビだ。」と天井の黒い斑点を指さした。雨水がしみ込んで鉄筋がさび始めた。外壁にはヒビも入っている。「センメントの質が悪いからこうなったんだ。」と語るおじさんは、細々と商売を営む為に入居をしたようだった。再建された家屋は、高地の気候風土を十分に理解して設計されたのであろうか?
再建された家にいざ入居しようという矢先の事で、住民は不満を隠し切れなかった。

標高2000mの山の斜面の暮らしを対口支援するは年中熱い南の広東省であった事にも原因があるのかも知れない。家は、その土地の暮らしを如実に表すものなのだろう。
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2009年07月19日

四川水害緊急レポート

日本では余り報じられていませんが、四川地震の被災地で豪雨による水害が発生しています。四川に戻ったYさんから緊急レポートが来ましたので、お届けします。

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四川水害緊急レポート(2009・7・18)

 昨年5月12日に襲った四川大地震の被災地にまた水害が発生した。7月14日から激しい雨が四川省全体で降り続いた。その激しい雨は、土砂崩れ、土石流、家屋浸水などの被害を引き起こした。17日までに死者8名、行方不明5人、仮設住宅浸水400戸、緊急避難者約11万人、約188万人がこの水害で被災したという。被害の大きいエリアは、青川、北川、江油、平武、三台などの22の市県に及ぶ。いずれも昨年の四川大地震の被災地である。北川から平武を通って青川へと抜ける山あいの地域である。昨年の地震で地盤の緩んだ斜面が崩壊し、土石流を引き起こしたとも思われる。地震後、ブン川や北川などの激甚地区でも大規模な土砂崩れを起こした斜面に土砂止めなどの対策を施しているところは決して多くはな
い。

 TVの映像では浸水した仮設住宅で洗面器で水をかき出す様子が流れている。北川県の曲山鎮の仮設住宅では一時60pの浸水があったという報道もある。実は昨年の地震後、廃墟になった北川県城では6月の塞き止めダムの崩壊と9月の集中豪雨による土石流災害の2度の水害に見舞われ、水の引いた廃墟の街は大量の土砂や流木で埋まっている。仮設住宅がそのまま流されたところもある。古代の水利の英雄、「大禹」は故郷、北川の変わり果てた姿を見たらどう思うのだろう。

 一方、CODEが地震直後から支援してる光明村を含む香泉郷でも水害で電気と道路が寸断された。郷政府の人々もその対応に追われていた。数ヶ月前からの郷を横断する道路建設の為に掘り起こしていた事で被害が拡大されたのかもしれない。村のお医者さんに電話すると「大丈夫だ。今のところは人や家屋の被害はない。危ないから来ない方がいい。心配してくれてありがとう。」と言っていた。地震後から僕らとずっと被災地に通っているドライバーは「地震後の去年はあまり降らなかったのに、今年はこんなに降るなんて、天が泣いているのかもね。」と言っていた。「国破れて山河なし」にしてしまった子孫に対する「大禹」悲しみの涙なのかもと僕は思った。
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2009年06月24日

中国四川省地震救援ニュース 94

被災地である北川県香泉郷には約7900人の人々が暮らしている。郷内12の村のうち、6つは無医村であり、一人の医者が約1000人〜1500人の人々の健康を支えている。医者のいない村は、隣の村や郷の大きな病院へと自力で行かざるを得ない。
この地震によって郷内の7か所の診療所のうち2か所は全壊、その他も半壊、一部損壊などの被害を受けた。地震から1年が経とうとしている今も仮設テントで診療している医師もいる。

先日、郷のある村でP医師とお話をしている時に急病人が出たという知らせが入った。医師が呼ばれて僕もその後をついて行った。意識もなく過呼吸状態であるその男性高齢者を診たP医師は、自分の手には負えない危険な状態と判断し、この日たまたま居合わせた日本の元看護師Kさんも脳梗塞の疑いがあるとして「このままにしておくと最悪、死に至る。助かっても半身不随の状態にもなりかねない。」と言って至急、郷の大きな病院に搬送するようにすすめた。
だが、家族は出稼ぎ先の長兄と電話で相談した結果、病院には連れて行かず、このままの状態にしておくと言う。僕は耳を疑った。家族を見捨てるなんて。。。その家族が言うには、まず、救急車を呼ぶにもお金がかかる。そしてその後、助かったとしてもリハビリや入院などの医療費にお金がかかるという理由からこのように決断したそうだ。僕たちやP医師が無理やり病院に連れていったところで結局は家族の負担になると思うと無理じいする事は出来なかった。P医師も複雑な表情をしていた。日本的には、「とりあえず入院させて、お金は後で何とかなる」と考えるかもしれないが、これが、四川の農村の「何ともならない現実」であった。震災はこのようなところにも影を落としている。
家族の一人のおばあちゃんが、「住宅再建ですでに数万元の借金をしているのよ。どこにお金があるのよ!」と訴えるように言った言葉が今も耳に残っている。後日、P医師からその男性が亡くなった事を聞いた。

診療所を併設する「総合活動センター」が出来ると公共の施設となって医療費が安くなるという。センターが農村の医療問題の解決の一つのきっかけになればと思う。
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2009年06月16日

中国四川省地震救援ニュース 93

引き続き、Yさんレポートをお届けします。

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 綿竹市の中でも被害の大きかった遵道鎮棚花村。この春、ここには観光客の姿があった。非常に美しい田園風景の広がる広済から遵道、九龍、土門などでは毎年3月には「梨の花祭り」が開かれる。その中でも棚花村では震災前からこの花祭りを目当てに多くの観光客が訪れ、伝統工芸である年画や蜀繍(蜀の国の刺繍)が人気であった。

 震災後初めての春、この周辺では梨の白やピンクの梨の花と壱面の黄色い菜の花が咲き乱れた。その花に誘われるかのように観光客も徐々に集まり始めた。棚花村では再建された家屋の壁には年画が描かれてあり非常に雰囲気がある。そして村の中では以前のように「農家楽」を営む人々も現れ始め、訪れた観光客のおもてなしに大賑わいであった。

 昨年の地震直後、ボランティアで知り合ったSさん(22歳)はこの村の刺繍の先生でもある。Sさんとは、昨年6月初めてこの村を訪れた時からの縁で、ボランティアの会議でも僕の中国語のサポートをしてくれたり、一緒に北川県光明村にボランティアに行ったり、全壊した彼女の家のガレキを片づけたりと被災者であるにもかかわらず共に汗を流してきた。いつも「お兄ちゃん」と呼んでくれる可愛い妹でもある。彼女は、観光客に刺繍を買ってもらうために再建した自宅の一角に刺繍工房兼展示室を作り、自分で作った作品を観光客に売って生計を立てている。この日、お母さんは隣の農家楽のお手伝いに駆り出されて食事の準備に大忙しだった。訪れた観光客は、中庭で食事をしたり、マージャン、トランプに興じていた。お茶をすすりながらきっと震災の話でもしているのだろう。。。
この日お母さんが忙しそうに働いている姿が生き生きしていてどこか嬉しそうだった。
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2009年06月13日

中国四川省地震救援ニュース 92

Yさんレポートです。

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震災から1年が過ぎた四川の被災地では、「観光」復興への道へと進もうとしている。

被害の最も甚大であった北川県城は、元の場所に町を再建するのでなく、数十キロ離れた安県の平場に新たな「新北川県城」を再建する。そして元の「老北川県城」は地震遺跡として一部を保存する。北川県は、再建する「新北川県城」を「北川観光サービス基地」を中心に震災関連の「老北川県城」や「唐家山堰止め湖」などを「地震遺跡総合観光エリア」とし、震災前から観光地でもあったチャン族の治水の英雄の「大禹博物館」などの「禹里生態文化観光エリア」、自然豊かな「猿王洞」などの「猿王洞風景観光エリア」、避暑地でもあったチャン族色の濃い「青片小寨子風景観光エリア」などを新たに整備しようとしている。

 1年を迎えるころから被災地を訪れる観光客が増えだした。成都のある場所では毎朝、被災地を巡るツアーバスが出ている。旅行代理店が企画をし、百数十元でガイドが付いて北川県などの被災地を回ってくれるという。このお金が直接被災地の被災者の人々に落ちているかは、甚だ疑問であるが。。。

一方、北川県城周辺で被災した人々は未だ、仮設住宅でも不自由な暮らしの中、壊滅した「北川県城」見に訪れる観光客相手に震災のDVDや写真集、チャン族の刺繍などのお土産などを売って細々と暮らしている。僕も日本から来る専門家の方々やボランティアの人々を連れて何度も行っていると自然に顔なじみになってくる。被災者であるF さんは、自宅が倒壊し、今も仮設で暮らしながら廃墟になった県城を見下ろせる場所で見物客相手にお土産を売っている。Fさんは、いつも僕に「今日も日本の友人を連れてきてくれたのか!」と言って握手で迎えてくれる。いつも気になっていた事を聞いてみた。「ここには沢山の人が見物に来るけど嫌じゃないの?」と問うと、Fさんは「中には死者を冒涜するかのようにゴミを捨てていく人もいるけどそれは少数で、ここにきて震災の事を理解してくれるだけでいいんだ。」と語ってくれた。「俺はここで商売しているけど押し売りした事はない。写真など自由に見てくれて、買いたければ買ってくれたらそれでいいんだ。」と次から来る見物客に写真を丁寧に説明しているFさん。KOBEの「まけないぞう」を渡すとがっしりと手を握って「ありがとう」と言い、お礼に売り物である震災の絵葉書をくれた。

被災地が観光地になる事に対して日本の人々は疑問を持つ人も少なくないのかもしれないが、Fさんのような人々に出会って、生の話を聞き、そこに少しでも直接お金を落としていくような観光のあり方もあるのではないかと思った。
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2009年05月14日

中国四川省地震救援ニュース 91

Yさんレポートで、地震1年の被災地の模様をお届けします。

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2009年5月12日 14:28 ここ四川の被災地の多くの場所で沢山の人々が黙祷と追悼の念を捧げた。震源近く映秀鎮の?口中学校では、倒壊した校舎の前で胡錦濤主席ら国家級の人々が追悼の儀式を行った。綿竹の漢汪鎮や青川県などの被害の大きかった被災地はもちろん追悼の式典が行われたが、成都市内の天府広場にも多くの人々が自然発生的に集まって追悼したという。

約1万人2000人以上の方が亡くなった北川県城でもこれまで封鎖されていたゲートが開かれた。僕も前日の11日に北川県城に入る事が出来た。昨年の5月17日以来、約1年ぶりであった。5月の地震で廃墟と化した町に6月の塞き止め湖の氾濫と9月の土石流で埋まった家屋、車などがまったくそのままの状態で無残な姿であった。町の数か所に追悼の断幕や参拝の場が設けられ、この日は沢山の遺族がここを訪れ、線香、ろうそくが灯され、花が捧げられてあった。1階が潰されたビルの前にはひっそりと線香の煙が立っていた。被災地で約1万7000人の方が未だ行方不明と言われている。家族の亡骸を見ることも出来ずに、未だ死を受け入れられないのも当然だとその線香を見て思った。

 町の中ほどを歩いていると大きな泣き声が聞こえてきた。水で流されたであろう木材やガレキの山の前に女性が泣き崩れていた。抑えきれない悲しみから石をガレキの山に向かって何度も何度も投げつけていた。どうやらご主人や子供さんを亡くされたらしい。ある日突然、家族を失った悲しみは1年経ったところで到底癒されるものではない。

CODEの支援する光明村の多くの人々も12日はそれぞれの思いを胸に北川県城へと向かった。この日の村は誰も居ず、とても静かであった。あの日から1年、北川県城を追悼に訪れた人は約27万人だという。
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2009年05月13日

中国四川省地震救援ニュース 90

Yさんレポートで、「総合活動センター」を再建する香泉郷の様子をお伝えします。

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「総合活動センター」を再建する香泉郷は、北川県の南東に位置し、2200世帯、約7900人の住む農村地域である。そのうち約7500人(96%)が農民戸籍である。農村と言っても、郷内の森林被覆率は、80%で、標高が540m〜780mと地形は決して平たんなものではない。日本の中山間地域のようなところである。山には杉、松、竹や茶木が多く、その下には斜面を利用して季節によってトウモロコシ畑や菜の花畑などが広がり、野菜や果樹が隙間を縫うように植えられている。最も低い部分では田んぼで米や小麦を作り、その水田にはアヒルが放し飼いにされている。そして自宅の裏には豚や鶏を飼っている。自分たちに必要なものを作り、食べる。余った分は売るか、親戚にあげる。時折くる移動販売で調味料などのわずかなものを買う。いわゆる自給自足の生活である。非常に豊かな暮らしである。
だが、当然、農村にも電気やテレビ、モーターバイクもあり、とりわけ子供の教育費に現金が必要になる。村には現金を得る仕事がないので多くの若者は遠く外省へと出稼ぎに出る。村に残っているのは、小学生と高齢者がほとんどである。

 そんな農村に地震が起きた。地震の時、外に農作業に行っていた為、亡くなった人は少なかったが、郷の約1900戸(86%)の家屋が被害を受けた。住宅再建を余儀なくされた被災者の人々のほとんどが、多額なローンを組み、3年以内に返済しなくてはならない。これから返済に向けて頑張ろうとしているところに世界的な金融危機が起きた。「早く再建して早く出稼ぎに行って早く借金を返済しないと」と思っている矢先の出来事だった。この杞憂危機の影響で中国国内で約2000万人の失業者が出たと言われる。これまでのように簡単には仕事は見つからない。出稼ぎ人口の最も多い四川省の被災農村にも金融危機の暗い影を落としている。

 そんな中でも少しずつ再建されていく自宅を前に被災者の人々はどこか嬉しそうにも見える。本来ならば、豊かであったはずの暮らしが、どこか不便で貧しいものと感じさせてしまう風潮。世界がこんな状況だからこそ四川の農村の被災者が、自らの暮らしにもっと自信を持ってもいいのではないかと思う。この「総合活動センター」はそのような暮らしを今一度、見つめなおす場になる事を願っている。

 あれからもう1年。これまで寒々としていた被災農村に新たな春がやってきた。一面に咲き乱れる菜の花の黄色が、復興への希望を象徴しているように思えた。
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2009年05月06日

中国四川省地震救援ニュース 89

Yさんレポートによる復興支援プロジェクトの内容です。

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 前回、CODEのプロジェクトが決定したとお伝えした。地震直後から活動している光明村を含む北川県香泉郷の7つの村に「総合活動センター」を再建する。この総合活動センターには様々な機能が集約される。村の決定機関である「村民委員会」、村の医療機関である「衛生室(診療所)」、芸能、教育などを司る「文化活動室」、村内の放送機関の「広播室」、会議室などである。その中でも最も重要であるのが、衛生室すなわち、診療所である。

 光明村では、約700人の村民の健康をたった一人の医師が支えている。香泉郷12の村には医師さえいない村が4つもある。そのような村では病人が出ると隣の村もしくは、比較的大きな郷の「衛生院」まで自力で行くしかない。また、急病や重症の場合は郷の衛生院から救急車を自費で呼ぶ。仕事のない農村の住民にとって医療費は決して安いものではない。ましてや震災で経済的にも大きな負担を強いられた被災者にとっては尚更である。

 中国の農村の医療制度はまだまだ不十分であり、昨年4月から中央政府は「新農村建設」政策の一貫として農村部を対象に「新型農村合作医療制度」という健康保険制度を導入し、約9億人と言われる全農民の約8割以上が既に加入したと言われる。昨年5月の地震後もこの制度が活用されていると言われるが、施行されたばかりで制度上の不備や普及上の問題なども少なくないようだ。

 郷政府のW書記の話によると、これまで村の診療所は個人のものであった。それ故に医療費は安くなかったという。この「総合活動センター」を再建する事で診療所は公共性を帯び、医療費が安価なものになるという。この「総合活動センター」の機能には様々な効果が期待されるが、被災農民が切望しているのはまさに安価な医療であろう。。
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2009年04月21日

中国四川省地震救援ニュース 88

四川地震から1年が経とうとしていますが、CODEの復興支援プロジェクトが漸く決まりました。Yさんレポートで報告します。

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昨年5月12日に発生した四川大地震(中国では、5・12ブン川大地震と呼ばれる)から間もなく1年の月日が過ぎようとしている。

CODEは地震発生の3日後から救援活動を開始した。日本人を中心に中国、韓国、香港などの沢山のボランティアとガレキの片づけから始まり、仮設住宅建設、農作業、住宅再建などを被災者の方々と共に汗を流し、被災者の声にじっと耳を傾け、時には地震や耐震の事を一緒学びあい、考え、悩みながらこの1年活動してきた。その中で少しずつ被災した村人との信頼を築いてきた。

そして1年を目前にCODEのプロジェクトが理事会の承認を得て正式決定した。
地震直後から活動してきた光明村のある北川県香泉郷全体の診療所を含む「総合活動センター」を7つの村にひとつずつ再建する。(中国政府は06年より国家プロジェクト「新農村建設」の一環として医療改革を推進し、この震災復興の中にも反映させている)この地震で診療所が倒壊し、未だ不自由な仮設テントで診療する村医や高額な医療費故に診察を拒む被災者の人々にとっても意義のある事と思われる。また、この「総合活動センター」には、診療所はもちろん、村民委員会、村内放送室、文化活動室などの機能を併設し、ここで被災者自らが、自分たちの村、地域を考えていく場にもなり得る。このセンターが村の中心的なコミュニティースペースとなる事を切に願う。14年前に同じ痛みを味わったKOBE、そして日本の被災地の方々などの貴重な浄財を四川の被災した農村に還元したいと思う。もちろん、建物を建てて終わりではなく、その後もCODEらしく被災者と共に悩み、共に学び合っていく活動を継続していきたい。今後とも皆様のご協力、ご指導、ご理解をいただきたく思う。

 このプロジェクトの詳細(場所、機能、意義など)については、次号よりレポートする予定である。
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2009年03月03日

中国四川省地震救援ニュース 87

Yさんレポートをお届けします。

「桃坪」という場所が被災地にある。四川省省都、成都から約60km、アバ州理県にあるチャン族の集落である。以前は桃の栽培が盛んだったことからこの名がついたそうだが、地震が起こる前までは四川でも有名な観光地のひとつであった。精密に石を敷き詰めて建てられたチャン族伝統家屋が見事に残り、それを縦横無尽にとりまく通路が迷路のようになっている。これは古来より外敵から防御するために考え出されたものであるという。また、ひと際目に着くのは、ちょう楼という高さ20〜30mの塔で、昔は見張り台として使われていたそうで、現在は作物の貯蔵などに使われている。古いものは約1200年の歴史があり、チャン族が最も古い少数民族のひとつであることを思わせる。集落の多くの家は民宿として観光客を迎え入れ、チャン族の暮らしをそのまま味わうことできる。石積みの家の間を歩いているとどこか違う世界にタイムスリップをしたような感覚になってくる。

だが、この桃坪も地震によって大きな被害を受けた。石や土の壁が大きく崩れ落ち、いたるところに緑色の防護ネットが張られている姿が無残である。地震後、アバ州へと続く主要道路が崩落し、外部からのアクセスが不能となった。08年10月頃から道路の修復を終えたが、未だに観光客はまったくいない。道端で日向ぼっこをしながら刺繍をしているチャン族の女性たちに話を聞いた。

もともと地震前より民間の投資による観光開発の計画が進められていたという。ここに住んでいるチャン族の人々を別の場所に移転させ、この集落をそのまま博物館のようにするというものだったそうだ。新たに100ムー(1ムー約667u)の土地を開発し、そこに住民を移転させ、宿泊施設などを建設する計画で、すでに約7割の住宅が完成していたのだが、そのうち80%の家屋が地震によって危険家屋となったそうだ。民間企業による一人あたり1.5万元の補助の他は、自らの出費で家を建設していた矢先に地震が起きた。桃坪内の元の住居も被害を受け、新しい住宅も被害を受け、現在、ほとんどの住民は集落内でテントや掘立小屋を建て、暮らしている。
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今後の復興の話を伺うと、文化遺産として評価の高い元の集落は、国家文物局によって修復がなされるそうであるが、現在建設中の新居は政府の補助も何もないとう。たとえ元の家が修復されたとしても博物館として保存されるのであれば、以前のようにそこに暮らすことはできなくなる。一方、新居を補修、再建する為の資金も補助も全くない。そして最初に投資した民間企業も去ってしまったという。彼らは今後どこに住めばいいのか、いわば「宙ぶらりん」の状態である。人よりも文化遺産が優先される復興。もちろん文化の保護も重要であるが、そこに人々が暮らしているからこそ文化遺産としての価値もあるのではないかと思い
ながら話を聞いていた。。。
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2009年02月13日

中国四川省地震救援ニュース 86

 北川県光明村では四川大地震で4,5組のほとんどの家が被害を受けた。9月より住宅再建が進んでいるが、5組では、三十数年振りに伝統構法の木造住宅が再建されている。

 先日、一軒目の木造住宅の棟上げ「上梁」が行われた。村の大工によって加工された柱や梁をある程度組み合わせた段階で皆で立ち上げる。男性は梁に上がり、木槌で柱と梁を叩いて組み、女性は下でロープで柱を立ち上げる。子供は爆竹や願いの赤紙の準備し、高齢者たちは周りでそれを見守る。この日だけは、隣でレンガ住宅を再建している人々も手伝う。村長、組長、子供、女性、お年寄りたち、5組の住民総出で「ああでもない、こうでもない」という感じで家を組み上げていく。普段あまり家の事を手伝おうとしない息子さんも一生懸命働く。様々な願いの書かれた赤い紙を柱に貼った後、家の四隅に線香が立てられ、この家の持ち主であるLさん、Xさん夫婦と息子の3人を前に村の長老のような方から何やら文言を唱えられる。そして家の中心である赤い布の巻かれた梁が厄除けの爆竹の爆音と共にロープで引き上げられた後、日本のモチまきのようにキャンディーやクルミ、豆などがまかれて「上梁」が終わる。その後、参加した村人を招いて宴会が行われる。

 30年振りに行われた「上梁」。光明村に通い始めて7カ月、初めて「文化」というものを垣間見た気がする。このようにして光明村の人たちはいざという時に助け合いながらずっと生きてきたのだろう。木の家を建てるという事は、ただ単に住宅再建をするという事だけではない効果を村の人々にもたらしたに違いない。
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