2013年10月28日

【中国四川省地震救援ニュース】No.120

9月末、吉椿事務局長が四川省を訪れ、農家楽のワークショップを行いました。
その時のレポートをお送りします。
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中国四川省地震救援ニュース No.120
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 2008年5月12日に中国四川省を襲った四川大地震(中国では、5.12ブン川大地震)では被災地の農村部の暮らしぶりが露わになった。中国国内で農村部から都市部へと出稼ぎに行く「農民工」は、2億6261万人(中国国家統計局調べ)と言われ、その人々の存在が現在の中国経済を陰で支えている。

 大地震から5年を経た今も被災地では、未だ再建した住宅ローンの返済のために遠く外省へと出稼ぎに行く人々は多い。CODEの支援する北川県光明村の住民も約半数は出稼ぎに出ており、村は高齢者や子供が中心でどこか閑散としている。

 そんな光明村では、CODEによって建設された「老年活動センター」を使って「農家楽」と呼ばれる農家レストランの経営を始めている。この農家楽の発祥の地である四川省では、都市の人々が週末、農村に出かけ、花や景色を楽しみ、郷土料理を食べ、お茶を飲みながら麻雀やトランプに興ずるというレジャーが人気である。このアグリツーリズムは、四川から中国全土へと広まっていった。

 光明村の農家楽が順調に進めば、そこで雇用が生まれ、子どもを置いて出稼ぎに行かなくてもいい女性が出てくる。また村の高齢者の作る野菜を買い取ることで多少の現金収入も入り、家計の足しになる。

 だが、光明村の農家楽はまだ始まったばかりで知名度もなく、時々、政府の会議や村のイベントなどで使われる程度で、普段は閑古鳥が鳴いている。また、住民の中には村の幹部が勝手にやっているだけだと斜に構えている人もいる。

 そんな状況を何とかしようと先日、ボランティア仲間の協力で農家楽の専門家を招いてワークショップを開いた。北京の中国社会科学院から来ていただいたW先生は、日本に留学経験もあり、日本語も非常に堪能な方で中国の農村の人口問題や貧困脱出を研究している。W先生は、フィールドである北京や貴州省の貧困地域の農家楽で村おこしを行っている事例を光明村の人々に非常に分かりやすく伝えてくれた。「北京のある村では、たったひとりの女性が奮起、努力して、村民の信頼を勝ち取って、女性たちの力を生かし、農家楽を発展させていったのよ。」という話に住民参加や地域の力を如何に生かすかが、如何に大切かを教えてくれた。聞いている僕自身もどこからか力が湧いてくるような話だった。住民の人に感想を聞くと、いつも村の幹部に不信感を持っているLさんでさえも、どこか感心したように「あんな風にやれたらいいわねえ。」とつぶやいた。それを聞いたW先生はすかさず「あんたのように元気な女性がメンバーに入らないと!」とLさんをけしかけていた。

 これまで上から下へとトップダウンで物事が決められ、言いたい事を言ってもなかなか聞き入れてもらえないという農村社会で生きてきた人々にとって、現状を変えるには計り知れないエネルギーがいるだろう。そして住民参加を実現するにはまだまだ課題も多い。だが、震災を通じてCODEや沢山のボランティア、W先生などの外部者と出会い、交流する事で少しずつではあるが、変わり始めている。そっとそばにいて、人と人をつなぐ役割がNGOやボランティアなのだとあらためて思う。
                                   (吉椿雅道)
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2013年04月01日

【中国四川省地震救援ニュース】No.119

先日の後藤さんの四川省訪問レポートに続き、スタッフ吉椿のレポートをお送りします。

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中国四川省地震救援ニュース No.119
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CODEの支援によって北川県光明村に建設された「老年活動センター」は村民にすでに利用されている。高齢者を中心にお茶を飲んだり、マージャン、トランプをしたりと中国風な娯楽を楽しんでいる。

村長の胡さん(30代)から、村のイベントで沢山の村人が集い、焚火を囲んで皆で歌い、踊っている写真を見せてもらった。写真の中に僕らボランティアと仲良しのお母さん、Xさん(30代)が楽しそうに得意の歌を歌っている姿があった。

今回久々に光明村に行くので、Xさんの携帯にメールを送った。すぐに返事が来て、「今、浙江省なの。また出稼ぎよ。あなたが来るなら会いたかったわ。。。」と数日前に再び出稼ぎに出たことを語ってくれた。2010年の尖閣諸島での漁船衝突事故の後、四川省でも1万人規模の反日デモが行われた。その日、僕らは光明村で村人と共にお祭りを行っていた。最後にXさんは、「中日友好一家親」(家族のような中日友好を)という大きな刺繍を数か月かけて一針一針と作ってくれ、「ボランティアとか何もしなくていいのよ。ただ来てくれるだけでうれしいのよ。」と語ってくれた。Xさんはこの震災を通じて日本、日本人を知った。そして今、誰よりも日本と中国の友好を願っている。

Xの歌っている写真を見てすごくほっとしたのは、Xさんが、震災が起きてから光明村の中でも最も苦しい立場に置かれているからだ。まもなく5年を迎える今もXさんの家は完成していない。2階部分や内装が薄いトタンで仮止めしているだけだ。お金ができたら材料を買って少しずつ家に手を入れている。

Xさんは、酒好きな旦那に時々DVを受け、息子は仕事をしていない。唯一の希望は、遠く別の省で一人学校に通っている娘だ。彼女のために歯を食いしばって出稼ぎで働いている。震災はXさんの人生をより過酷なものにしてしまった。震災から5年たって被災地の街は見事にきれいに再建された。だが、Xさんのような人が今もいることを忘れてはいけない。
(吉椿雅道)
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2013年03月22日

【四川省訪問レポート(学生編)】No.4

一昨日に続き、「若者ポスターセッション」で最優秀賞を取られ、CODEプロジェクト地の四川省を訪問している後藤早由里さん(神戸大学4年生)のレポートをお送りします(これで最終です)。

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四川省訪問レポート 3月17日 
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今日は北川県の地震遺跡の見学に行った。

バスを降りて見えた光景は、衝撃的だった。地震災害後の街をそのまま保存していると聞いてはいたが、実際にすべての建物が傾き、崩れ、潰れている。その空間からは、痛みや苦しみの声が聞こえてくるような気がして、心の中ではずっと手を合わせていた。

四川大地震の行方不明者は、1万7923人いると聞いていた。この建物の下に今もおられる方がいるかもしれないと思い、その方々の存在を感じながら見学させていただいた。

このように地震遺跡として、被災した町全体を残し見学できるようにするということについては、貴重なことだと思う人もいれば、絶対よくないと思う人もいると思うし、どちらの気持ちもあるという人もいると思う。しかしこの町は保存されている。この街を見学して、私は、この地震遺跡を100年後に見ても同じように衝撃を受け、手を合わせると思った。保存されるということは、この地震の記憶を持たない人が見ても多くのことを感じ、学ぶことができると思う。この場所で被害にあった方はどんな思いだったのか、自然の力がどれだけ大きなものなのか、建物はどうして崩れ倒れ潰れているか、それぞれ考えることは違っても、きっと何かを感じ考えると思った。それぞれが見学してそれで終わるのではなく、それぞれが感じたこと考えたことが共有され、今後に生かされていくことが重要なことだと思った。

神戸大学 保健学科 
4回 後藤早由里
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2013年03月20日

【四川省訪問レポート(学生編)】No.3

昨日に続き、「若者ポスターセッション」で最優秀賞を取られ、CODEプロジェクト地の四川省を訪問している
後藤早由里さん(神戸大学4年生)のレポートをお送りします。
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四川省訪問レポート 3月16日 
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今日は、震源のあるブン川県の復興された街を見に行った。

そこでは、地震によって倒壊した中学校がそのままの形で遺跡として保存され、その周りには商店が立ち並び、地震博物館も建てられ、観光地のようになっていた。観光で訪れている人は、その多くがガイドに連れられて見てまわっていた。

その街の中の住宅地を2か所見てまわった。
1カ所目は3階建ての一軒家で、ほとんどの家が1階のスペースを使って商店をしていた。その中のヤクの角を加工した小物を売っている1人のおばさんに話を聞いた。おばさんは、元々は、地震によって位被害を受けた山間部に住んでいて、今と同様の商店を開いていたという。日本の復興住宅でもお店を持つ人はいるが、その数は少ないと思う。このように、復興住宅の住居として得た部分の一部をお店にするという発想はすごく新鮮で、中国人の力強さを感じた。日本では何かしらの制度があって住居部分をお店にするというのはできないのかもしれないが、元々やっていた仕事ができるのは、その人の生活習慣が取り戻しやすく、生活する中で大きな力になると思った。

2カ所目は、土砂によって被害を受けた村を再建したところで、2階建ての住居が建ちならんでいた。一軒ごとに少し大きめの花壇のような場所が設けられていて、そこにはどの家も所狭しと菜の花や白菜やネギなどいろいろな野菜が植えられ育てられていた。

元々、その村に住んでいた方は農作物を育てていたそうで、住宅にも畑のできるスペースが設けられたようだった。一軒ごとに小さくても畑仕事のできるスペースがあることで、そこでできた野菜を家で食べることができ、さらに、いきがいが保てるのではないかと思った。

2カ所の復興住宅を見て、そこに住む人たちがどんな暮らしをしてきたのかを踏まえて住宅を建てることで、そこに住む人たちが復興住宅での生活に慣れやすく、生活する力につながると思った。

神戸大学 保健学科 
4回 後藤早由里
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2013年03月19日

【四川省訪問レポート(学生編)】No.2

昨日に続き、「若者ポスターセッション」で最優秀賞を取られ、CODEプロジェクト地の四川省を訪問している
後藤早由里さん(神戸大学4年生)のレポートをお送りします。

後藤さんたちの「KOBE足湯隊」チームによる発表は、インドネシア・ジャワ島のムラピ火山災害を想定した
「火山とともに生きていく」というものでした。自らの足湯ボランティアの経験をもとに、「外部の人が入っていくときはまず信頼してもらうことが大切」、と後藤さんは言います。

生活用水の確保にはじまり、モスクでの内職づくり、防災教育と様々なアイディアを取り入れた発表に、
「相手を思いやる想像力にあふれたプレゼン」とコメンテーターの方を唸らせていました。
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四川省訪問レポート 3月15日 
(2)光明村
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光明村に着いて、書記さんのお宅でお医者さんと書記さんと村長さんと昼食をごちそうになった。そこまでの道沿いには、すっかりきれいな白壁の新築が並んでいて、すべての家が被害を受けたということが、今の光明村からは想像がつかない程だった。

村の人たちは、初めてやってきた中国語のわからない私を、にこにこしながら受け入れてくれた。こんな風に受け入れてくれるのは、吉椿さんや光明村で活動したボランティアと村の人とが築いてきた信頼関係のおすそ分けをいただいたような気がした。

昼食後、光明村の老年活動センターを見に行った。木造の伝統的な作りの建物は、かっこよくて、村の雰囲気に馴染んでいた。今日はたまたま、いつもレストランをしているお母さん方がPTAの会議のようなものに行っていてセンターが開いていなかったため、あまり人がいなかった。普段はどんな様子なんだろう、ここにきている高齢者の方たちはここのことをどう思っているのだろうと思い、また日曜日に行ったときに開いていたら
いいなと思った。

老年活動センターでは村長さんや書記さんの話を聞いた。今後老年活動センターをより大きくして、イベントをしたり、釣りやほかにもいろいろと事業を広げていきたいというようなことを話していた。

老年活動センターを見た後、村の1人のお母さんに連れられて、そのお母さんのお宅にお邪魔した。そのお母さんは、老年活動センターをこれ以上大きくする必要はないと話していた。しかし、それは村長さんや書記さんには面と向かっては言わない。吉椿さんによれば、中国では政府の力がとても強く、村のことも村長や書記の意見でいろいろなことが決まるということが普通なことで、それに対して村人が意見する場などはほぼ存在しないという中国ならではの事情があるそうだ。

外から支援に入る私たちは、村の人たちの意見も聞いていった方がいいのではないかと思うかもしれないけれど、その意見を押し付けたら、この村の人間関係のバランスが崩れてしまうかもしれない。それはとても大変なことだと思う。でも、村のみんなの意見が汲み取られていくこともとても大事だと思う。村長さんや書記さんと村の人たちの意見、どちらもじっくり聞いて、バランスを取りながら調整することが大事だと思うが、それはとても基準があいまいなもので、慎重に進めないと難しいことだと思った。

外から支援に入って、老年活動センターを建てても、それで終わりでなく、老年活動センターが村の人たちに本当の意味で馴染んでいくように、見守っていくことも大切だと思った。

神戸大学 保健学科 
4回 後藤早由里

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2013年03月18日

【四川省訪問レポート(学生編)】No.1

去る2月2日、CODE10周年シンポジウムの一環として、また、次世代の市民活動の担い手が育つ場づくりとして、若者による「ポスターセッション」を行いました。海外の災害に対して自分たちはどのような救援プロジェクトを行うか、ポスターに描いてプレゼンテーションしていただくものです。

学生を中心とする9チームに参加いただき、自らの経験や関心を踏まえた思いのこもった発表に、会場はとても盛り上がりました。

会場の方々による投票の結果、見事最優秀賞を取られた「KOBE足湯隊」チームの後藤早由里さん(神戸大学4年生)に、CODEのプロジェクト現場を訪問していただくこととなりました。3月14日から19日の日程で、CODEスタッフ吉椿とともに中国・四川省の被災地を訪れています。さっそく現地の後藤さんから報告をいただきましたのでご紹介します。
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四川省訪問レポート 3月15日 
(1)新北川県
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北川県は、四川大地震によって大きな被害を受け、人口3万人の内の2万人が亡くなり、さらに地震の影響で土砂崩れや土石流の被害が重なり、政府より復興は困難と判断を受け、別の場所に新しく北川県を作ることに
なったと聞いた。今日は、その新しく作られた"新北川県"を見に行った。

"新北川県"は、とてつもなく大きかった。元々、菜の花畑だったところに、将来は7万人が住むと計画され作られた町ということだった。町の中には、マンション、お店、学校、スタジアム、博物館などが、広大な土地に一つ一つどっしりがっしりと建っていた。しかし、その建物の存在感に比べて人の気配はあまり感じられなかった。商店の集まっている辺りに行くと、それなりに人が歩いていたが、少しめかし込んだ格好の人たちが多く、どうやら観光に来ている人のようだった。

これだけ大きな建物がいくつも発災から数年で建ったということには驚いた。日本とは違い、土地はすべて政府の持ち物であり、とにかく政府の力がとっても強力なことでこのようなスピードで成し遂げられたということだった。被災して家がなくなった人たちにとっては、すぐに住む家を得ることができるのはとても安心できることだと思うので、その点でスピーディーなことは大事なことだと思った。一方で、元々この場所で菜の花を育てて生計を立てていた人は今どんな思いでマンションに暮らしているのだろう?北川県で被災した人たちは、この場所で以前のような仕事ができているのだろうか?マンションから商店まで歩いたら遠いだろうなぁ。いろいろ大きすぎやしないだろうか?と思うことはいろいろとあった。

東日本大震災では、日本の制度や行政の仕組みなどもあって、なかなか将来の住居が決まらずにいる人がたくさんいる。その人たちのことを思うと、早く住居が決まることはとても大事なことだと思う。でも、今回この"新北川県"を見て、早ければいいというものでもないように思った。その場所でこれから生きていく人たちが、どう生きていきたいと思っているのか、どんな生活をしていきたいのかを大事に考えていかなければ、その場所に生き続けていく人たちの生活が、気持ちが、続かないような気がした。

神戸大学 保健学科 
4回 後藤早由里

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2012年06月01日

【四川省地震4周年レポート】No.8

2008年5月に起きた四川省地震のレポートをお送りします。
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四川省地震4周年レポート No.8
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●支え合いと学び合い3(ボランティア)
2008年5月四川大地震後、中国全土から様々なボランティアが被災地に駆け付けた。2009年5月の国務院発表によると震災後、1年間で約300万人のボランティアが被災地に駆け付け、後方支援のボランティアは1000万人以上だった事から中国の「ボランティア元年」とも言われている。
政府の共産党青年団(共青団)や企業などが派遣した官製ボランティアが約40%で、残りの60%は個人ボランティアであったという。個人ボランティアの多くはインターネットや携帯を駆使して、政府や団体に頼らずひとりひとりが被災地へと向かい、出来ることをやるというスタイルでボランティアを行った。

震災直後に綿竹市遵道鎮で出会った広東省の若者たちは、「俺達は皆、携帯で情報交換してここで出会ったんだ。やれる事をやるだけさ。」と語っていたのを思い出す。その若者の多くは20代で、中国では「80後(パーリンホウ)」と呼ばれる。「80後」とは1980年代に生まれた世代をいい、「ITが得意」、「優しい」、「個性を大事にする」、「海外の文化や情報に抵抗がなく受け入れる」などが特徴と言われているが、計画生育政策(一人っ子政策)によって親の愛情を一身に受け、裕福な時代に育ったため「貧しさも苦労も知らない」、「親の脛かじり」、「わがまま」、「甘やかされ世代」と皮肉って使われる事の方が多い。だが、被災地に駆け付けた多くのボランティアはこの「80後」の若者たちであった。TVから連日流れる被災地での懸命な若者の姿から四川大地震以降、「80後」の若者に対する社会の評価は一転した。

広東省から来たボランティアたち.JPG

上海から僕を訪ねて来た二人組の大学生は、「先生の老朋友(旧友)の日本人がNGOで活動しているって聞いて来ました。」と言って、ガレキの片づけを共に行った。非常にまじめで素直な若者たちで、何か役に立ちたいという思いに溢れていた。また、CODEと共に3カ月間ガレキの片づけをしたボランティアの中国人女性(当時22歳)も「ずっとやりたかった事をやらせてもらえる機会を与えてくれてありがとう。」と話してくれ事があった。

上海から来た大学生たち.JPG

「80後」の象徴と言われるH氏(作家、四川地震当時25歳)のブログには約3億5000万のアクセスがあるという。彼は、「80後」に関するインタビューの中で「四川大地震以降、世間の評価は変わったが、80後が地震以降に変わった訳ではない。彼らは元々、社会的な活動をする意欲を持っていた世代なんだ。」、「地震後、被災者救援という名で堂々と活動できるようになった」と語っている。

「80後」というレッテルを張られ、くすぶっていた中国の若者たちが、四川大地震後、生きがい、やりがいを求めて動き出した。その流れは、2010年の甘粛省土石流災害や青海省玉樹地震にも確実につながって来ている。約2億人いると言われる「80後」。今後、社会環境が整ってくれば、若いボランティアたちは社会を変える大きな力になっていくだろう。
彼ら、彼女らの自由な発想や活動は、17年前のKOBEを思い出させる。
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2012年05月21日

【四川省地震4周年レポート】No.7

2008年5月に起きた四川省地震のレポートをお送りします。
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四川省地震4周年レポート No.7
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●支え合いと学び合い2(痛みの共有)
 2012年3月、四川大地震から4年を目の前に四川大地震の被災者の方々3名が来日した。2008年の震災直後からCODEが支援し続ける光明村の3名は、初めての外国に戸惑いながらも、ひとつひとつの事をしっかりと学んで帰っていかれた。
 金沢大学との協働で始まったこの企画は、2007年3月25日の能登半島地震や昨年の東日本大震災の被災地の方々と交流しようというものである。
 3月25日には能登で開かれたシンポジウムでは、インドネシア・アチェの津波の専門家に交じって、その難しい発表にもじっと耳を傾ける四川の3名であった。その中でも特に熱心に学ぶXさん(40代女性)は、「日本に来るのが夢だったの。日本の事を沢山学びたかったのよ。」と学ぶ事の楽しさを実感している姿が印象的であった。
その後、東北の被災地、宮城県七ヶ浜を訪れた。現地で1年以上活動を続ける名古屋のレスキューストックヤードの方々にお世話なり、被災者の方々と交流させていただいた。
拠点である「きずな館」にいつもお茶飲みに来る七ヶ浜の被災者のお母さん達が語り始めるや否や通訳を待たずにXさんは、涙を流し始めた。言葉を超えた何かを感じ取ったのだろう。その後、Xさんは「同じ被災者として、東北の皆さんをとにかく励ましたいという思いで日本に来たんだけど、話を聞いているとあの時を思い出して。。」とつぶやいた。

Xさん、七ヶ浜の被災者の方と.jpg

 岩手県大槌町の仮設住宅では、吉里吉里の被災者の方々と「まけないぞう」を一緒に作る事が出来た。吉里吉里のお母さんたちが先生になってPさん(60代)、Lさん(40代)の男性陣も慣れない手つきで、ひと針ひと針縫っていった。光明村でも有名な「まけないぞう」であるが、これまで作る機会がなかったXさんは、得意な裁縫で時間を忘れるくらいに没頭していた。東北の被災者が四川の被災者に寄り添うようにして教える姿は非常に感慨深いものがあった。

吉里吉里でまけないぞうを教えてもらうXさん.jpg

その後、いつの間にかXさんが手作りポーチの先生になり、編み方を教え始めた。そこにはもう言葉はほとんど要らなかった。四川の被災者と東北の被災者が支え合う姿に国を超えた新たなつながりが感じられた。

吉里吉里と四川の被災者の方々.jpg

最終日、17年前の被災地KOBEで光明村の人々との大交流会が行われた。これまで光明村を訪ねたボランティア、学生、研究者の人々など総勢56名の方々が集まり、歌、笑い、涙ありの再会を喜ぶ、暖かい集いになった。
中国と日本は、依然として様々な問題を抱えている。だが、震災を通じて普通の人と人が出会う。誰から支えられていたはずの人がいつの間にか誰か支え始めている。そこには目の前の人とどのように向き合い、つながっていくかしかない。震災は、そんな日中のわだかまりを少しずつ解きほぐしていくきっかけとなる。
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2012年05月19日

【四川省地震4周年レポート】No.6

2008年5月に起きた四川省地震のレポートをお送りします。
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四川省地震4周年レポート No.6
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●支え合いと学び合い1(伝統建築)
四川大地震から3年を前に東日本大震災が発生した。
同じように被災した四川の人々は、この東日本大震災を決して隣国の他人事とは思えなかった。自分たちが震災で傷つき、苦しんだ事を思うと居てもたっても居られなくなったそうだ。2008年の四川大地震の直後からCODEが支援を続けている北川県光明村や他の被災地から28000元(約37万円)沢山の人々が1元、5元と想いを込めて寄付をしてくれた。ちなみに光明村の人々の肉体労働の日当は約50元(約660円)である。

 そんな想いの光明村の人々3名が3月に来日した。金沢大学との協働で能登半島地震や東日本大震災の被災者の方々と交流するという企画である。
初日、京都観光にお連れした。初めての異国の伝統文化を見る目は真剣そのもので、特に東寺、清水寺などの寺社の伝統建築に釘付けになっていた。四川大地震後、伝統木造家屋が倒壊せずにしっかりと残っていた事から建築の専門家の間でも「木造は強かった」という声もあがった。

綿陽市安県では170年の清朝の木造家屋、綿竹市遵道鎮で100年家屋、平武県でも100年の家屋がしっかりと残っていた。北川県の北部には数多くの木造住宅が今も残っている。光明村でも十数軒の伝統木造家屋は見事に残り、築55年の木造家屋のすぐ横の数年前に建てられたレンガの家屋は倒壊していた。

 CODEは、2008年の住宅再建の際に光明村で木造家屋の再建を推奨してきた。だが、「伝統木造家屋は古くさい。」、「みすぼらしい。」、「洋風な家が格好いい。」などの声も多かった。そんな中でも実際に木造家屋の再建を選んだXさん(40代女性)は、今回日本で京都の東寺を見て、肝心の仏像そっちのけで、「日本の寺は本当にすごい。こんな大きな柱は中国にはもうないわ。」と感慨深げに語っていた。
 清水寺の舞台の基礎を見学したPさん(60代男性)も「こんな建築は見た事もない。」とつぶやいた。本来、日本の伝統構法も中国から伝わって来たに違いないが、現在、中国全土で伝統木造家屋が少なくなりつつある。

この震災を機に伝統建築が見直されたが、実際に再建された所はそれほど多くない。それは、すべて木材が高価な事による。国土の広い中国と言えども活用できる森林は決して多くない。1998年の長江の大洪水が以降、上流域の四川省などの森林を伐採する事が制限され、その後国家プロジェクトとして「退耕還林」(畑を森林に戻す)が行われ、森林面積はこの10年ほどで20%(2010年)まで人工林を造成してきた。四川大地震後の復興でも農山村部ではこの「退耕還林」が重要視された。
光明村の3名は、村に戻って、伝統構法で建築された「老年活動センター」を見て改めて自分達の伝統文化に誇りに気付くのではないだろうか。
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2012年05月17日

【四川省地震4周年レポート】No.5

2008年5月に起きた四川省地震のレポートをお送りします。
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四川省地震4周年レポート No.5
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●対口支援の課題4 「今後」
2012年5月12日。あの四川大地震から4年が過ぎた。
丸4年を待たずに2月に四川省政府は実質的な「復興宣言」を発表した。
「2012年四川省人民政府工作報告」によると、2万9692の復興事業は99%完了し、540万世帯、約1200万人の住宅を再建し、170万人の再就職支援も成功し、失業の問題も解決した。」と強調した。そして今後は「発展」に力を入れて行くという事だ。

 4年目を迎えた被災地には、大規模かつ真新しい街があちらこちらに広がる。対口支援の期間は3年という期限がある。ほとんどの事業を終えた対口支援の省市も間もなく撤退の準備も始まる事だろう。
多くの被災者は、新しい街に未だ馴染めないながらも早いスピードで綺麗な街や住宅が再建された事を喜んでいる。だが、これまで山間部の貧困地域に住んでいた被災者の人々は、見た事もないような新しい設備に戸惑っている。大幅に生活レベルが上がった事は喜ばしい事ではあるが、それを維持する為には当然これまで以上の費用を負担しなくてはいけなくなる。北川県の多くの農村住宅には、人間や家畜の糞尿から沼気と呼ばれるメタンガスを発生させる為のタンクを掘っていた。そのガスを炊事や電気として有効活用していた。だが、新しい街では当然、田畑もなく家畜を飼う事もできない。新しい暮らしの中では、すべてをお金で買わなくてはいけない。便利さを得た分、現金収入が必要になるのだが、新しい街にはまだ被災者を多く雇用できるほどの産業は生まれていない。

 学生、教師が1300名以上犠牲になった北川中学は、新北川県城(永昌鎮)に再建された。敷地面積約15万u(建築面積7,2万u)という大学並みの広大なキャンパス、教室、宿舎はもちろん様々な施設が整備されている。これは海外の華僑の支援によって通常の学校の10倍以上の2億元(26億円)資金が投入され建設されたが、2009年末には「豪華すぎる」との批判も起きている。
 対口支援の終了しようとする今、被災地に建設された豪華な街や施設を今後、地元だけでどれだけ維持、管理していく事が出来るのかが課題になる。

 成都市計画局のW氏に以前お会いした時に「通常は、西部大開発で数十年かかって行うべき事業をこの数年でやろうとしている。」と語った事を思い出す。凝縮された復興のしわ寄せは、被災地や被災者の暮らしに様々な陰を落としている。
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2012年05月16日

【四川省地震4周年レポート】No.4

2008年5月に起きた四川省地震のレポートをお送りします。
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四川省地震4周年レポート No.4
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●対口支援の課題3「格差」 
 四川大地震の被災地は、四川省だけでなく甘粛省、陝西省、重慶市、雲南省などを含み、約50万uという広大な面積を占める。それは日本の国土の総面積約38万uをもはるかにしのぐ。約50万uの被災地には417の市県があり、被災の程度によって激甚災害指定地区のような極重災区、重災区、一般災区の3つに区分されている。被害の甚大な極重災区、重災区だけでも約13万uの広さがある。極重災区は、北川県、ブン川県、都江堰市、綿竹市など10市県、重災区は、四川省理県、江油市、黒水県などの山岳省少数民族エリアなどの29市県と甘粛省、陝西省の12市県、一般災区は、186県市に広がっている。

 四川大地震の復興の中で対口支援によって支援を受けているのは、全被災地417市県の内、四川省の10の極重災区と8の重災区の一部の18市県のみである。(甘粛と陝西の重災区は天津市と広東省によって支援されている。)ここで見落とされているのは、四川省内の29の重災区のうち21の重災区は対口支援がなく、一般災区は、何の支援もないという事になる。対口支援から漏れた被災市県は、ほとんど独自の財源のみで再建を行わなければならない。これは、2009年6月の全人代(全国人民代表大会)の常務委員会によって指摘されており、資金不足で優先的に再建されるべき学校、病院さえも手間取っているという。

 また、対口支援のしくみによる格差も起きている。ブン川県水麿鎮の禅寿老街は広東省仏山市の対口支援によって1800年代の清代の町並みを復元し、見事な復興を遂げた。伝統木造構法で再建された長屋はすべて無料で被災者に提供された。だが、一歩路地を入ると数十万元で自宅を自力再建した被災者もいる。
 一方、北川県内のほとんどの被災地では、個人の住宅はデザインこそチャン族様式で統一再建されたが、費用は、政府の補助金(世帯数によって1.6万〜2.2万元)以外は、すべて個人が多額のローンを組んで返済していかなくてはならない。北川県の人々は、ブン川県の住宅が無料で提供されている事をしる術もない。

 被災地間でこのような格差が起きている原因のひとつには、復興プロジェクトは支援する省市が独自に計画、実施しており、被災地全体での調整、統一がなされていない。支援する省市が競う事で当然このような格差が生じる。また、支援する省市のGDPにも関係している。対口支援ではその省市のGDPの1%以上を使って行う。財政収入の多い省市はそれだけ多くの資金を使って復興事業を行う事が出来る。被災者一人あたりの援助を受ける額は、最も額の多い広東省の支援と黒竜江省の支援の間には40倍以上の開きがあると言われる。4年を迎え、復興宣言をした被災地だが、このような格差の問題はなかなか表に出てこない。
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2012年05月14日

四川省地震4周年レポート No.3

2008年5月に起きた四川省地震のレポートをお送りします。
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四川省地震4周年レポート No.3
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●対口支援の課題2 「雇用」
5月12日14時28分、神戸の自宅でひとり黙祷した。
毎年、被災地でこの日を過ごしてきた。最大の被災地、北川県城へと続く山東大道(山東省の対口支援によって建設されたために名づけられた。)は、きっと今年も遺族に会いに行く多くの被災者の車で渋滞となっているだろう。この4年間で出会った数百、数千の被災者の人々の顔が目に浮かぶ。

 去年(2011年)のこの日、北川県光明村のLさん(40代女性)が、「新しい北川県城に仕事もらいに行ったんだけど、ダメだった。」と語った事を思い出す。
2008年の震災直後から始まった山東省各市の対口支援は、約1年間、北川県内の各郷鎮の支援に取りかかった。山東省青島市は北川県曲山鎮を、済南市は北川県擂鼓鎮を、溜博市は香泉郷をというような具合にカップリングをして、各郷鎮の中心の街の公共の病院、学校、庁舎などを再建した。だが、その下の「村」単位までの支援はなかった。先述の光明村のLさんは、これまでご主人の仕事を手伝いながら、肉体労働の単発のアルバイトを見つけては働いてきた。2009年3月頃に村内に3つのレンガ工場が外省の民間企業によって立て続けに建設され、「村で働ける!」と光明村にわかに活気づいた。だが、レンガの需要はそう長くは続かず、数カ月でことごとく閉鎖していった。

 2009年6月には北川県内に分散していた山東省各市の支援チームは新北川県城(永昌鎮)に集結し、山東省の総力を挙げて「新北川」の復興事業に本腰を入れた。整地、道路、橋などのインフラ整備、学校、病院、博物館、体育館、郵便局、銀行、官庁、ホテル、マンションなど街に必要なものすべてを山東省各市がエリア毎に建設することになった。建設に必要な資材、人材、労働力もほとんど山東省から運搬された。広大な敷地で進む197の復興事業(総費用約68億元=約884億円)にLさんのような被災者の雇用が期待されたが、実際にそこで働く人々のほとんどが、山東省からの出稼ぎ労働者ばかりであった。197のプロジェクトのうち、銀行や電力会社などの国営企業の独自プロジェクト以外は、ほとんどが山東省の対口支援によるものであり、Lさんのような被災者がありつける仕事は、地元の北川県や綿陽市が独自で行うわずかな復興事業のみである。

 震災からちょうど4年。復興事業をほぼ終えた被災地には真新しい綺麗な街が出現した。観光復興を謳う政府だが、現実には観光で収入を得ている被災者はごくわずかである。被災地には相変わらず仕事はそれほどなく、遠く出稼ぎに行く被災者も多い。光明村の半数は、今も家族と離れ離れで暮らしている。
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2012年05月13日

四川省地震4周年レポート No.2

CODE海外災害援助市民センターです。
2008年5月に起きた四川省地震のレポートをお送りします。
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四川省地震4周年レポート No.2
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●対口支援の課題1 「スピード」
2008年5月12日に発生した四川大地震の救援にあたって中央政府は、「対口支援」という独自のシステムを用いて支援を行った。沿岸部などの経済発展を遂げた19の省市と被災地の18の市県がペアを組み、各省市の財政予算の1%を使い、3年間の被災地の支援を行うというものだ。日本でも昨年の東日本大震災後、広域災害の支援として注目され、「1対1支援」、「ペアリング支援」、「マンツーマン支援」、「国内版ODA」など様々な呼ばれ方をしている。

四川大地震の被災地でこの対口支援を使って当初3年の復興事業を2年に短縮し、短期間の復興を遂げた事は世界からも注目をあびた。2012年2月末には事業の約99%を完了させたと「復興宣言」を四川省政府は発表した。

実は、この対口支援は、ケ小平の唱えた「先富論」によって生まれたと言える。「先富起来!」(富める者から豊かになり、貧しきものを助けよ。)という改革開放政策がもたらした沿岸部と西部の格差を埋める為に考えられた「西部大開発」の一環である。1970年代後半からチベット自治区や新疆ウイグル自治区でもインフラ整備や教育などの支援が行われている。

また、1993年より16年の歳月をかけて長江流域に建設された世界最大級の三峡ダムも21省市の対口支援によって行われた。四川大地震後の青海省地震(2010年4月 玉樹地震)でも北京市などの対口支援で復興事業が現在も行われている。

四川大地震後の復興過程の中でこの対口支援は非常に効果を発揮したがその陰で様々な問題も生んでいる。2008年の9月頃より始まった住宅再建の際には、「対口支援」の重視するスピードによって被災者の多くは、「早く建てないと政府の補助金がもらえないんだ。」と住宅再建をじっくり考える暇もなく、再建を急がされた。それによって被災地の至る所に耐震性を十分に考慮されないままの住宅が現れた。

また、広大な被災地で同時に住宅再建が行われた事により、レンガ、鉄筋などの建築資材が約3倍に高騰した。震災前の農村住宅では、平均5〜6万元(65万〜78万円)だったものが、震災後には13万〜15万元(169万〜195万円)に跳ね上がった。

支援側の省市の幹部の中には「いくらいい計画でもスピード感がなくては意味がない」と語る人も出てくるほど対口支援では競争原理が働いた。

遅々として進まない東日本大震災の復興過程と比較すると中国政府の決断力の早さが多くの被災者に安心感を与えた事は評価すべきである。だが、対口支援による復興がスピードを重視し過ぎた為に様々な問題が四川の被災地で起きている事はあまり語られる事はない。
(吉椿雅道)
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2012年05月11日

【四川省地震4周年レポート】No.1

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四川省地震4周年レポート No.1
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2008年5月12日に発生したM8.0の四川大地震(中国では、5.12ブン川大地震)では、死者6万9226人、負傷者37万4643人、行方不明者1万7923人、総被災人口約4600万人、家屋被害(倒壊21万6000棟、損壊415万棟)という未曽有の災害となった。(2008年8月25日 国務院発表) 

被災地は、四川省だけでなく、甘粛省、陝西省、重慶市、雲南省などの10省市、417県を含む総面積約50万平方km、地震を引き起こした龍門山断層の長さ300km以上と広範囲に及び、少数民族の居住する標高2000mを超える山岳部から農村部、人口約1100万人の大都市、成都まで多様な地形、文化を有する地域に大きな被害をもたらした。四川大地震は、1949年の新中国成立以降、その規模から最も甚大な災害だと言われる。(死者数では1976年の河北省唐山地震が勝る。)

最大の被災地、北川県城(曲山鎮)では人口3万人の内、約2万人の命が犠牲となった。4年を経た今も約5000人の亡骸はガレキの下に眠ったままである。毎年、5月12日には国家級の追悼式典がここで開かれ、一般にも無料開放され、沢山の人が追悼に向かう為に数時間の渋滞が起きる。政府は、この甚大な被災地を地震の遺跡公園としてそのままの状態で保存する事と決め、現在、被災地の4か所(北川県城、ブン川県映秀鎮、綿竹市漢旺鎮、都江堰市虹口郷)に地震遺跡と記念館を建設している。北川県城などは昨年よりすでに一般公開されている。

町ごと移転を決めた北川県城は、20qほど平地に下りた場所に新たに再建され、永昌鎮(新北川)と名前を変える事になった。北川県城で被災した人々は、この9平方kmの広大な新しい街、「新北川」に居住している。集合住宅、学校、病院、銀行、郵便局、博物館、体育館などすべては新しく、道や橋も広く、公園、広場も建設され、非常に便利な近代都市に見える。だが、どこか生活の匂いが感じられない。2012年に入って、商店や食堂などは増え、人の姿を見かけるようになったが、その多くは観光客である。また、中心の商店街に店を出しているのは被災者よりも外部から来た人々も多い。街は建設されたが、個人商店以外の仕事はあまりなく、住民の多くは外地へと出稼ぎに出て行く。

震災前この場所は、安県黄土鎮と呼ばれ、広大な田畑が広がる田園地帯だった。春には一面の菜の花が黄色く広がっていた。ここで暮らしていた約1万人農民は、再建期間中、別の場所へと移転を迫られ、再建が終わった2011年に戻って入居した。だが、ようやく帰ってきた故郷の風景はまったく違ったものになっていた。これまで土を作ってきた400平方mの農地はすでになく、あるのは約30平方mのマンションの一室のみである。数十年も土地を耕して生きてきた農民は、4年を経た今、どんな思いで暮らしているのだろう。

2012年2月、四川省政府は約540万世帯、約1200万人の住宅を建設し、失業問題も解決し、復興事業もほぼ完了したと実質の復興宣言を発表した。華やかな復興宣言の陰に沢山の見えない問題、課題がある。震災から4年を機に今後、少しずつ振り返っていく。
(吉椿雅道)

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再建された新北川の街

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新北川の観光商店街

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2011年10月22日

中国四川省地震救援ニュース110


CODE事務局です。
久しぶりの投稿となりましたが、中国・四川省地震被災地のプロジェクトニュースです。
皆様の継続的なご支援のおかげで、「光明村老年活動センター」が完成しました。
ご協力に心から感謝申し上げますとともに、ここに報告させていただきます。
 
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四川大地震救援プロジェクト
「光明村老年活動センター」完成 !!!

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2008年5月12日に発生した四川大地震では、死者6万9226人、行方不明者1万7923人という大惨事となった。発災3日後より四川省の被災地へと入り、支援活動を行ってきた。

これまでCODEは、北川県羌族自治県香泉郷光明村(人口約700人)を中心に、@ガレキの除去作業、A仮設住宅建設のサポート、B住宅再建のサポート(耐震住宅の勉強会、建築専門家の紹介、新住宅デザインの提供など)、B村祭りの共同開催、C日本の災害、復興の専門家の視察コーディネートなど活動を行ってきた。

2010年4月より開始したCODEのメインプロジェクトである「光明村老年活動センター」が2011年8月末に完成した。

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木造瓦葺の家屋は、中庭で人々が集えるようにと中国伝統三合院(三方が家屋で中庭のあるコの字型)の様式を採用し、釘を使わない石場立て、木造軸組み構法で建築され、耐震性にも配慮されている。設計は、四川省では寺院建築で有名な四川省古建築設計研究院(都江堰市)にお願いした事もあって見事な匠の技が活かされた建築となった。

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9月25日、光明村にて鍵の引き渡し式が行われた。中国側は、香泉郷人民政府副郷長、綿陽日報、北川テレビ局などの来賓にもご参加いただき、日本側もCODEの代表理事や最大ドナーでもあるコープこうべの方々、そして現地で共に汗をかいたボランティアの仲間にもご参加いただいた。光明村自慢の踊り、歌、演劇などの披露と日本側の歌、羌族様式のもてなしの杯、村民のお手製の料理など村民の熱烈歓迎ぶり、そして高齢者の方々や子ども達にも沢山集まっていただき盛況な集いとなった。

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最後に村民から頂いた感謝の旗にはこう書かれている。
「一衣帯水:無私大愛情暖光明村民、心手相牽:日中友誼子孫世代伝承」

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村民の中には「こんな立派な建物を建ててもらったのだからちゃんと使わないと!」、「ここはあなた達の戻ってくる家だから。」、「いずれこれを利用して光明村の発展を考えたい。」などの声が上がっている。

3年半を経た現在の被災地では、住宅再建によるローン返済の為に多くの人々は外地へと出稼ぎに出ている。村に残されるのは、主に高齢者、子ども達である。そんな状況で、この老年活動センターは、残された高齢者がお茶を飲んだり、麻雀をしたり、子ども達は本を読んだり、遊んだりする村民の集う場所を目的として建設された。また、また再び災害に襲われた際の避難拠点にもなり得るだろう。

今後、村民が主体的に考え、このセンターを管理、運営していく。高齢者、子ども達の集いの場としてだけでなく、光明村の発展の為の施設として、震災をきっかけにした日中の交流拠点としても活用されていく事を願う。
(吉椿雅道)


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2011年05月19日

中国四川省地震救援ニュース109

2008年5月12日に起きた中国・四川省の地震から3年が過ぎました。
四川省にいる吉椿のレポートです。
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四川大地震3周年レポート6
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3周年を迎えた四川大地震の広大な被災地では、政府の言うように3年を目途に大規模かつスピーディーな再建が見事になされた。だが、それに伴って様々な課題も残る。

約300kmに渡る被災地に無数の新しい街が再建された。そして、多くの場所で地震の傷跡を保存した遺跡観光地が生まれた。旧北川県城、青川県、ブン川県映秀鎮、綿竹市漢旺鎮など極重災区(激甚災害地区)は、どこも同じような遺跡や民族色を活かした観光地になっている。

漢旺鎮で細々と土産物を売るZさん(60代女性)は、「5.12前後は、人は多いけどねえ。。。」とどこか不安気に言う。この漢旺鎮は元々、企業城下町で、東方汽輪機(東汽)という車のタービンを製造する会社の工場が誘致された事によってこの町が発展して来た。工場周辺には従業員の為の学校、銀行、公安局、郵便局、レストラン、社宅などがあり、ここに暮らす人々は東汽に何かしら関係していたと言われる。

地震によって東汽の従業員も約300人が犠牲になり、壊滅的な被害を受けた漢旺鎮は、閉鎖されずっとゴーストタウンのようになっていたが、現在、観光地としての準備を進められている。だが、東汽は断層上にある漢旺鎮での再建をあきらめ、徳陽市に移転した。漢旺の新しい街は、遺跡のすぐ近くに立派に再建されたが、東汽を失った今の漢旺鎮に「仕事」はない。

被災地に誕生した無数の観光地。だが、1年を通して継続的に観光客が来るという保証はなにもない。また、観光に携われるのは被災者のごく一部である。そして、地震遺跡には今も沢山の命が眠っている。3年経った今も遺族は、倒壊した家屋の前に花を手向け、お香を焚き、祈りを捧げている。

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2011年05月17日

中国四川省地震救援ニュース108

2008年5月12日に起きた中国・四川省の地震から3年が過ぎました。
四川省にいる吉椿のレポートです。
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四川大地震3周年レポート5
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ブン川県映秀鎮。世界遺産、都江堰に流れ込む泯江の上流に当たり、周囲は急峻な山に囲まれた谷あいの町である。震源地に近い事もあり、映秀鎮では人口約16000人の内、死者、行方不明者を合わせると約9000人を超える被害を出した。

あれから3年。

5月12日、映秀鎮の中心部にある?口中学校では毎年恒例の追悼式典が行われた。児童、教師が犠牲になったこの中学校は地震遺跡として保存されている以外、被災地を想像させる場所はどこにもない。映秀鎮の町は元の場所に綺麗に再建され、今後、農業と観光で発展させる方針だが、3年経った今、そこに生きる被災者にとって現実はまだまだ厳しい。

映秀の町を見下ろすように並ぶ漁子渓村にも真新しい住宅群が完成して久しいが、入居しているのはほんの一部だ。顔なじみのおばちゃんLさん(50代)は、「まだ内装が出来ていないから・・」と口を濁すが、実際は十数万元する新住宅に入居する費用が払えないということのようだ。

漁子渓村のバラック小屋に未だ住んでいる人は少なくないが、自前の小屋で細々と商売を営むAさん(50代女性)は、「若い人は出稼ぎに行ったり、観光客相手に土産物売って日銭を稼いでいるけど、大した仕事はないねえ。」、「観光客は、映秀を通り過ぎるだけ。皆、都江堰や成都に戻るからねえ。」と将来の不安を隠せない。

目の前に再建された住宅を見ながらAさんは、「震災前、あの場所に畑があったんだ。今はそれもできないよ。」と語る。周りを山に囲まれた映秀鎮には元々耕作できる土地は少ない上に、地震による地滑りなどで鎮の総耕作面積140万平方メートルのうち、約半分の土地を失った。周りの山の斜面には今も草木は生えず、岩肌を露わにしている。

未だバラック小屋に住む被災者の人々と目の前の真新しい住宅群のコントラストが、3年経った今の被災地である。

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2011年05月16日

中国四川省地震救援ニュース107

2008年5月12日に起きた中国・四川省の地震から3年が過ぎました。
四川省にいる吉椿のレポートです。
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四川大地震3周年レポート4
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北川県光明村の住民の多くは、現金収入を出稼ぎに頼らざるを得ない。震災によって住宅再建に多額のローンを組んだ為、出稼ぎにより拍車がかかった。震災後に外資によって村にレンガ工場が3つ誘致され、村民は遠く出稼ぎに行く必要がなくなった。だが、1年を待たずにことごとく閉鎖され、村民は再び職を失った。

Mじいちゃん(79歳)は、小学生の孫Aくんと二人きりだ。Aくんの両親は浙江省に出稼ぎに行っている。震災後、Mじいちゃんの息子さんは木造住宅を再建した。木造を再建する事を決めたのはMじいちゃんの強い希望からだった。小さい頃から木造住宅で暮らしてきたMじいちゃんだが、数年前に建てたレンガの家がこの地震で倒壊した。「やっぱり木造がいい。倒壊した家のレンガはもう使えないけど、木材は再利用出来るからなあ。」と少し自慢げに語る。

そんなMじいちゃんは、最近、よく村の診療所を訪れる。どこか体が悪い訳ではないようだ。医師のPさんによると「寂しいんだろうなあ。」という事だった。

CODEの建設する老年活動センターは、中庭のある伝統木造の三合院だ。出稼ぎで若者のいない村に残る高齢者や子ども達がこの施設を活用することになる。センターが出来れば、村の高齢者で作る老年活動クラブの元代表でもあったMじいちゃんは、今度はきっとここに来るだろう。村の書記Lさんは、「今年の老年節の祭りは、このセンターでやりたいなあ。」と語った。


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2011年05月14日

中国四川省地震救援ニュース106


2008年5月12日に起きた中国・四川省の地震から3年が過ぎました。
四川省にいる吉椿のレポートです。
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四川大地震3周年レポート3
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2011年5月12日。四川大地震から3年。

政府の発表では、被災地では約220万戸の住宅の再建を終え、復興計画の95%のプロジェクトが完了したという。

北川県光明村でもほとんどの住民は住宅再建を終えた。だが、村はどこか閑散としている。村の医師であるPさんに訊くと「今は村民の半分もいないだろうなあ。」という。今年9月の住宅ローン返済期限を目前に村民の多くは出稼ぎに出ている。遠く新疆ウイグル自治区まで行っている人々もいる。

本来8人家族のPさんは、今は、孫のWくん(2歳半)とHくん(10歳)と奥さんの4人のみで暮らしている。Wくんのお父さんは青海省の建設現場へ、お母さんは江油市の農家楽(※)へと出稼ぎに行っていて、お母さんは月に3日の休みの時のみしか帰って来られない。Pさんの診療所は国の資金で立派に再建されたが、閑古鳥が鳴いている。「皆、出稼ぎに出てて、人がいないから診察に来る人も少なくて、収入もあんまりないよ。」とこぼす。

Pさんは震災前、他の家と同じように豚を飼っていた。子豚を売ったり、春節などの祭りの時にさばいて食する。だが、退耕還林(畑を森林に戻すという国のプロジェクト)によって土地を収用され、「豚の飼料のトウモロコシを作る土地がないから、今は豚も飼えないないよ。」と言う。そんなPさんの息子、娘夫婦は遠くで一生懸命働いている。そうやって被災者の人々は3年経った今も家族皆で支え合って生きている。

(※農家楽…中国で行われている、農村の自然や文化を都市部の人々に楽しんでもらうグリーンツーリズム)
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2011年05月13日

中国四川省地震救援ニュース105

2008年5月12日に起きた中国・四川省の地震から3年が過ぎました。
四川省にいる吉椿から、レポートをお送りします。
震災を経験した四川の人たちが、東日本の人たちの痛みを想ってくれています。
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四川大地震3周年レポート2
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北川県香泉郷光明村。人口約700人のどこにでもあるような普通の村に地震が起こった。

地震発生時の14時28分、多くの村民は田植えの為に外に出ていた。それが幸いして村内で亡くなった人はいなかったが、190戸中8割は全半壊、再建を余儀なくされた。

あれから3年。

5月12日、光明村では3年前と同じように村民は田植えに忙しい。隣近所の田植えを皆で手伝う「結」がここでは今も活きている。出稼ぎ先から近所の田植えの手伝いの為にXさん(30代女性)は戻ってきた。「久しぶりだから今日は皆でご飯食べよう!」と僕らを誘ってくれた。

食事中の話題の中心は東日本大震災の話。XさんやLさん(40代女性)は地震の被害と津波の被害の違いにもじっと耳を傾けてくれた。3年前に自分達が大変な思いをしたので他人事ではないようだ。震災で価値観が変わったという事を耳にするが、Xさんもその一人だろう。

「自分達も震災を経験したから、日本から沢山学ばなくてはいけない」と語った。東日本大震災の発生直後、四川地震後に共に活動したボランティアの有志が四川の被災者から東北の被災者へのメッセージを集めてくれた。山形県米沢市の避難所で今も被災者の方々が光明村の人々のメッセージを見ているだろう。国は違っても震災という痛みを受けた被災者同士だからこそ分かる事があるはずである。

そんなXさんは08年12月誰よりも早く木造住宅を再建し始めた。だが、3年経った今も家はまだ完成していない。震災後、夫婦共に職を転々とし、資金が集まったら材料を買い、再び家に手を入れる。そうしながら少しずつ家を作って来た。今年9月の住宅ローンの返済期限を目前に家族バラバラに出稼ぎに出る事を選択したXさん家族。

数か月ぶりに出稼ぎ先の成都から村に戻って来たXさんは、とても楽しそうに村人と田植えをしていた。Xさんにはやっぱり光明村が似合うなあとつくづく思った。

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四川の方々からのメッセージはこちらに掲載しています。
■「ぼくの地球を走る旅」メッセージを集めてくれたNさんのブログ
http://ameblo.jp/masanori0615/entry-10832916212.html

■CODE東日本大震災ブログ
http://tohopacificcoast.seesaa.net/

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